「満蒙は日本の生命線」発言の松岡洋右は、本当に帝国主義のイデオローグだったのか

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「満州は日本の生命線」と主張し、国際連盟からの脱退を宣言、日独伊三国同盟を推進した松岡洋右(ようすけ)といえば、日本を戦争に引きずり込んだ帝国主義のイデオローグという評価が一般的だろう。

 しかし、学習院大学教授の井上寿一氏は、近著(共著)『日本の戦争はいかに始まったか―連続講義 日清日露から対米戦まで―』(新潮選書)の「第三章 満州事変はなぜ起きたのか」で、松岡は必ずしも軍事力による大陸進出を目指してはいなかったと論じている。以下、同書から一部を再編集してお届けしよう。

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困窮する「満蒙」居留民

 なぜ1931年の満州事変は起きたのでしょうか。

 じつは満州事変が起こる前年に結ばれた日華関税協定は、日中外交関係の修復の頂点でもありました。すなわち山東出兵や張作霖爆殺事件で悪化した日中関係は、1930年の日華関税協定によって修復の頂点に達したのです。

 しかしながら、この関税協定の実質は、「満蒙」における日本人の商工業者を切り捨てて、中国本土との自由貿易による相互利益の拡大をめざしたもので、民政党内閣の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外相はそのことをはっきり言っています。「満蒙」ではなく、「中国本土」と。民政党の中国政策の基本は、「満蒙」ではなくて、中国本土との通商貿易関係の拡大です。日華関税協定はこの文脈で成立したのです。

 当時、「満蒙」の日本人居留民は、見捨てられる危機に陥っておりました。1931年初頭の「満蒙」は、つぎのような状況でした。「今日では支那官憲から顛覆(てんぷく)されあまつさえ敵人扱を受け、日本内地人からは産業上の差別待遇を受け、帰るに家なく、働くに商売もなく、今は只鰻の寝床の如き満鉄附属地及関東州で自己の貯金を寝食して居る次第である」。

 このように「満蒙」における日本人居留民は、中国側の官憲からは敵国人扱いされ、日本の内地の人からは差別待遇を受け、非常に貧しい生活を送っていました。鰻の寝床のような満鉄附属地と関東州、そこで貯金を崩しながら生活しているのが「満蒙」の日本人居留民だったのです。

冷淡な民政党内閣の幣原外相

 困窮する「満蒙」の日本人居留民に対して、幣原外相は非常に冷淡でした。この年3月の貴族院で幣原外相は、つぎのように言っています。「在満同胞は徒(いたず)らに支那人に優越感を以て臨み、且つ政府に対し依頼心を有する事が、満蒙不振の原因である」。「満蒙」が不振に陥っているのは、在満日本人居留民が中国人に対して優越感をもって臨みながら、日本政府に対しては依頼心が強いからである、もっと自立しろと。中国人に対する優越感、差別意識をなくして、政府に頼ることなく自分で頑張れと、そういう言い方をして「満蒙」を切り捨てようとしていたのです。

 このような状況において、この年6月に中村震太郎大尉事件(満州奥地の興安嶺〈こうあんれい〉方面を調査中の陸軍参謀本部部員が同行者とともに中国人に殺害された事件)が起きます。この事件は満州事変のきっかけだと指摘されることがあります。実際にはこの事件が起きても日中双方で事件の早期収拾に努めて、中国の排日ボイコット運動も鎮静化しています。

 現地の日本の在外公館の報告によりますと、9月上旬の中国の排日ボイコット運動の状況は「一般輿論(よろん)殆ど鎮静に帰したる今日是以上活動の余地なかるべし」と、このようになっています。

 中国の世論は鎮静化したので、これ以上、排日ボイコット運動が活発になることはないだろうと報告しているのです。

「満蒙は日本の生命線である」演説

 このように満州事変が起きた年は、「満蒙」の日本人居留民が見捨てられる危機に陥っていました。本国政府は中国本土との通商貿易関係の拡大を重視していました。以上が9月(柳条湖〈りゅうじょうこ〉事件が勃発する月)上旬の状況でした。

 同じ年の初頭、1月の議会において、松岡洋右が有名な演説(「満蒙は日本の生命線である」)をしています。「生命線」は当時の流行語になって、何にでも「生命線」と使われるようになりました。たとえば龍角散の宣伝で「のどはからだの生命線」のようにです。「龍角散で喉の痛みを止めないと──そこが生命線なんだ」というように、流行語として使われる、それほど「満蒙は日本の生命線」というキャッチフレーズは、日本国内で急速に広がっていきました。

赤字だった満鉄経営

 満鉄総裁や「満蒙」開発を重視する政友会の議員の経歴から、松岡は軍部に近い人で満州事変を引き起こす側の人なのではないか、と誤解されがちです。しかし、松岡はそのような人物ではありませんでした。

 松岡の「生命線」演説は、見捨てられる「満蒙」の日本人居留民を代弁しています。このままでは日本の本国から「満蒙」は見捨てられる、そのような危機感を持って、「満蒙」は日本の生命線なのだから守らなくてはならないと訴えたのです。

「満蒙」は日露戦争で血を流して獲得したものでした。しかし25年も経つと人の記憶は薄れていきます。また「満蒙」によってどれほど日本経済が潤ったのか疑問でした。満鉄経営は赤字でした。猫の額ほどの旅順・大連、鰻の寝床ほどの満鉄とその附属地、そのような「満蒙」権益しかありませんでした。それと中国大陸全体、マーケットとしての中国大陸全体とを比較すれば、どちらが大事かは分かるだろうと。

「満蒙」に執着して、中国本土との関係が悪くなるよりは、「満蒙」のことは後回しで、広大な中国本土をめぐる通商貿易関係の拡大を優先する、そのような日本の国内状況に対して、「満蒙」を忘れるな、というのが「生命線」演説だったのです。

軍事解決に反対する松岡洋右

 松岡は危機感を訴えるだけではなく、現実的なことも言っています。すなわちあくまでも外交交渉によって「満蒙」特殊権益をめぐる日中間の問題を解決し、経済的アプローチが重要だと強調しているのです。

 松岡は自著のなかで、日中「提携」による「満蒙」の経済開発によって、日中両国に利益が得られるようにしたい旨を述べています。この本のあとがきを書いたのが柳条湖事件の起きた翌日の9月19日でした。松岡はあとがきに「外交は完全に破産した。……砲火剣光の下に外交はない、東亜の大局を繋ぐ力もない。やんぬるかな」と記しています。外交交渉でやらなければいけないのに、軍事力を行使してしまったのではおしまいだ。自分の考えていたことは満州事変の勃発によってだめになった。そのように言っているのです。

 松岡は、歴史年表で確認すると、「生命線」演説、国際連盟脱退、日ソ中立条約締結というように、協調外交ではなく、自主外交・武断外交の人に見えます。ところが実際は、軍事力によって解決することに反対しているのです。

※波多野澄雄・戸部良一編著『日本の戦争はいかに始まったか―連続講義 日清日露から対米戦まで―』(新潮選書)から一部を再編集。

デイリー新潮編集部

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