「暗号解読」で明らかになった「真珠湾攻撃」77年目の真実――「情報と通信」で読み解く太平洋戦争

ビジネス 2018年12月7日掲載

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 真珠湾の奇襲攻撃によって太平洋戦争の火蓋が切られてから、この12月8日で77年をむかえる。この歳月の中で私たちは、何を学び、何を失ってきたのか。太平洋戦争を「情報と通信」の視点で再検証してきた。

 前回の記事「危機意識の欠落が生んだ日米情報戦の敗北」では、戦時下における日本の脆弱な暗号システムと危機意識の欠如について見てきたが、今回はいよいよ核心、日米開戦の新たなる真相に迫って行く。

情報は米国の手の中へ

 暗号が盗まれたことにより、日本の「出方」はもはや米国に筒抜けであった。しかも複製された暗号解読機はその後も増設され、開戦時には計4台あったという。また米国解読班のタイピストの中には優秀な女性スタッフもいた。これら米国の動きに対し“内部犯行”を疑いつつも有効な対応策を打ってこなかった日本の外務本省はどうだったであろう。外務本省は駐米大使館に外交電報の取扱いを一部の幹部職員に限定させた上、3台あった暗号機も、その内2台を開戦後米国側に接収される危険性を減らすため、破壊させていた。疑心暗鬼に駆られ、現場の裁量を縮小させていった組織の様が見て取れるが、これにより米国と同時に電文を受け取ったとしても、傍受した方が先に内容を把握するという事態が起こっていたのは言うまでもない。

 ここで米国の傍受システムを理解するためにも、当時の外交電報の経路、情報体制を簡単に説明しておこう。まず外務本省から出された文書は省内の暗号機で暗号化、それを栃木県小山にあった小山送信所から米サンフランシスコの受信施設に向けて発信する。そしてサンフランシスコを経由してワシントンDCに転電されると、ワシントンDCの受信施設は暗号電を文書として出力して駐米大使館へバイク便等で配達する。そんな仕組みになっていた。いうなれば小山送信所から発せられた情報は、発せられた瞬間から米国の手中にあったといっていいだろう。2013年にスノーデンの告発で発覚したNSA(米国家安全保障局)の盗聴・監視システムを彷彿とさせるが、再び『通信の世紀――情報技術と国家戦略の一五〇年史』を見てみよう。

〈米国は、栃木県の小山送信所からサンフランシスコの米国通信会社の受信所に送られた日本の外交電報を米国西海岸シアトルにほど近いベインブリッジ島の海軍電信所で傍受し、テレタイプ(電動機械式タイプライター)でワシントンDCの海軍省ビルに転送した。こうした直通電信回線の設定により米国の解読班は、日本大使館の電信係員より、少なくとも配達に要する一、二時間程度早く日本の外交電報を手に入れていたのである。〉

14通目の開戦通告

 こうした情報体制の中、日本は太平洋戦争に突入するのであるが、戦端を開いた真珠湾攻撃には、この日本の情報体制が深くかかわってくる。

 ハワイ時間、1941年12月7日午前7時55分(日本時間8日午前3時25分/米国東部標準時間7日午後1時25分)、日本海軍がオアフ島真珠湾にあった米軍基地を奇襲攻撃した。日本の駐米大使2名が米政府に日米交渉の打ちきり、すなわち「対米最終覚書(事実上の開戦通告)」を米国務長官に手渡したのは、その55分後のことであった。ゆえに真珠湾奇襲攻撃は「騙し討ち」とされ、「リメンバー・パールハーバー」のスローガンは米国人の戦意を一層高揚させた。

 真珠湾の“成功”は日本に望外の戦果をもたらすものであった。ここでは戦績についての詳細は避けるが、後の展開を含め、日本はどこまで正確に真珠湾攻撃をシミュレートしていたか定かではない。なぜなら開戦通告は攻撃開始の約30分前、米国東部標準時間の13時までに米国に手渡すよう、外務本省から大使館へ伝えられていたのである。となると誹りを受けるほどの「騙し討ち」を意図していたのかどうか……。
 
 一般的にあまり知られていないかもしれないが、開戦通告はその長さゆえに14分割されて打電されていた。もちろん、それぞれは暗号化されており、最初から英文であったとはいえ、1通ずつ解読しなければならず、米国務長官に手渡すためにはタイピングし直す必要もある。1通目から13通目までは通告予定日の前日までに駐米大使館に届いていたものの、どういうわけか最後の14通目だけは、15時間も遅れ、当日の未明の到着となった。もちろん即座に解読していれば、指定の時刻には十分間に合い「騙し討ち」と言われることもなかったのだが、現実はそうではなかった。ここから開戦通告遅延の謎が深まってくるのである。

「遅延の謎」を解析する

 遅延の謎については、終戦20年を前にして、当時の第一線の政治学者が集まってまとめた『太平洋戦争への道』(第7巻/日本国際政治学会編)の結論が通説を牽引してきた。内容を端的に示せば、それは「駐米大使館の怠慢」であった。先に示したように、米国は日本の暗号をいち早く解読しており、事実、そのような記録も残っていたことから、解読とタイピングに手間取った大使館の動きを問題視し、その責任としたのである。

 しかし、実際には3台あった暗号機の内、2つは既に破壊させられ、タイピストの使用も禁じられていた中での処理能力には限度がある。しかも暗号文であるがゆえに、暗号機にかけてみないと内容が分からない。もし、14本目に送られてきた電報が、他の雑多な暗号文の中に紛れていたとしたらどうなるのか――。それが実際に現場で起こっていた出来事であった。『通信の世紀』では以下のように説明されている。

〈(東部標準時午前10時から)電信係員は「緊急電」を新着のものから順次解読し、(中略)まず(外務本省)アメリカ局長からの慰労電報、訂正電報、最後に通告手交時間指示の訓令となり、次いで普通電のかかり、覚書一四本目の解読を正午ごろに完了した。一番急を要する覚書一四本目の解読が最後になってしまったのである。〉

 東部時間正午といえば、1時間半後には真珠湾攻撃が開始される時刻である。ここからタイプライターで清書して、さらに車で駐米大使が米国務省に送り届けるとどうなるのか。これが直接の遅延の理由であり、意図した「騙し討ち」でなかったとされるゆえんである。だが、最重要の14本目が一番最後になってしまった理由はこれだけではない。ここで『通信の世紀』を著した大野氏に直接たずねてみた。

「14本目の解読が遅れた理由はさまざまな“不幸な要素”が複雑に重なりあった結果というべきでしょう。ただ、直前の混乱だけを捉えれば、14本目が13本目より15時間も遅く打電されたことにあります。結果として、その後に打たれた緊急電の解読が優先され、肝心の14本目の解読が遅くなってしまいました。当時の外務省の緊急電にはKINQU(緊急)、DAIQU(大至急)、SHIQU(至急)の順序で優先順位の符合が付けられていました。14本目の電報にも米国の通信会社に重要な電報であることを知らせるため、very important(最重要) とは記載されていたのですがKINQUの文字はなかった。very importantは外務本省の内規で定められた緊急電の指定ではなかったのです」

 しかも、その緊急電についていえば、先の引用にあったように「慰労電」という、簡単にいえば「いろいろと面倒掛けて申し訳ない」という外務本省からの“詫び状”であった。大野氏は続ける。

「実のところ14本目の前にも、外務本省は不要とも思える電報を送っているのです。例えば覚書が入電し始めた(米東部標準時間)6日にも、南米ギアナでの政治工作や、その周辺の世論の動向を調査するよう求めています。米国に対する情報攪乱ならば、その旨を大使館に伝えなければなりませんが、それもなかったため、結果として大使館の緊張が緩んだことは否定できません。後の『大使館怠慢説』に繋がったとするならば、再考する必要があります。もちろん大使館側にまったくの瑕疵がなかったとは言えませんが、責任の所在が明らかにならないという点では、むしろ外務本省の官僚体質を問うべきかもしれません」 

 大野氏のこれらの分析は、米国の傍受記録や外交史料館史料など、時を経てようやく公開された史料を丹念にたどった結実だが、『通信の世紀』にはこの他、さらに詳細な発着信の分析や、国際ラジオを用いた「風暗号」や、柳田邦男氏のノンフィクション『マリコ』で知られる「隠語電報」の実像が克明に記されている。

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 人が情報の選択で左右されるのは、何も現代だけの話ではない。77年前の“その日”もまた、人も国家も情報に翻弄されていたのである。

 19世紀末に電気通信が発明されたことにより、範囲ともに量も爆発的に増やしてきた情報通信は、海底ケーブル、無線通信、宇宙衛星……と、進化を遂げ、今は光ケーブルと無線の中をインターネットが走る。スマートフォンから横溢する種々の情報が24時間われわれを支配する。

 情報とは、いつ、どこから、誰が、何のために発するのか、それを理解しなければ曲解を得てしまうが、完全なる理解は至難の業だ。それは歴史の数々が証明する。

デイリー新潮編集部