「大屋政子」の毀誉褒貶 資産は300億円、“おとうちゃん”が再生した帝人の手のひら返し

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「ウチのおとうちゃんはなあ~」

 ピンクや白のミニスカートを穿いて甲高い声をあげ、バラエティー番組の人気者になった大屋政子。その「おとうちゃん」とは、大手繊維会社・帝人の社長で商工大臣を歴任した大屋晋三だ。(敬称略)

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「おとうちゃん」こと大屋晋三とのなれそめを、政子は次のように語っている。

《あのね、私はね、1年間イヤやって逃げてたの。おとうちゃんが故・鳩山一郎元総理の紹介状を持って朝8時に母に会いにやって来て、その日の夕方4時にもう一度私に、「結婚してくれー」ゆうてね、入ってきはったの。おとうちゃん51歳で私が24歳のとき。それで母は絶対反対やし、私もそんな27もトシが違うし、3番目の後妻になるのもイヤやしで「ノーノー」ってゆうてたんだけど……》

 日英バイリンガルの季刊誌『pink』(1996年12月号)で、「阿修羅の人生」を語った大屋政子のインタビュー記事が復刻され、ネット上で紹介された。

 政子の生まれは1920(大正9)年10月27日、大阪で鴻池(江戸時代、大坂(明治以降、表記は大阪)で両替商として成功した鴻池財閥)の次という資産家の母と、熊本県天草出身の弁護士かつ衆議院議員、森田政義を父にもち、生粋のお嬢さんとして育った。子供時分、家には2台の外車があり、父親はシボレー、母親はウーズレーに乗っていた。大正9年当時、車のある家は大阪で5軒ほど、2台ある家など関西には1つもなかったという。

「没落したらあかんねん」

 19歳の時に父が急死したことで人生は暗転。父の取り巻き連中で賑わっていた森田家に誰も寄り付かなくなった。懇意にしていた家を訪ねても、門さえ開けてもらえなかった。ここで舐めた辛酸や悔しさが「没落したらあかんねん」という、生涯変わらぬ、政子の人生哲学を生み出すことになる。

 政子は父の死後、大阪音楽学校に進むも中退して上京。大作曲家・服部良一の口添えで日本コロムビアに所属。戦中は近江俊郎、ディック・ミネ、淡谷のり子らと全国の陸海軍の施設・基地を慰問して回った。戦後、クラブ歌手をしていた政子の前に大屋晋三が現れた。1945(昭和20)年末のことだ。

 当時、帝人常務だった晋三は、政治家になろうと気概に燃えていた。立憲政友会で森田政義の同志だった鳩山一郎の紹介状を持って、「森田先生の選挙地盤を受け継がせて欲しい」と頼みに来た折に、晋三は森田のひとり娘に一目惚れしたということだ。

 鳩山一郎は1915(大正4)年、衆議院議員に当選して以来、政党政治家として活動。戦前、文部大臣として京都帝国大学で起こった思想弾圧事件「滝川事件」に関与したことで知られる。戦後、公職追放。追放解除後、政界に復帰。日本民主党を結成。1954(昭和29)年、総理大臣になる。一郎の孫が、民主党政権下の2009年に総理大臣になった鳩山由紀夫である。

 その日、一旦辞した晋三は夕方、森田家に舞い戻り、いきなり政子に求婚したのである。

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