「大屋政子」の毀誉褒貶 資産は300億円、“おとうちゃん”が再生した帝人の手のひら返し

ビジネス 企業・業界

  • ブックマーク

Advertisement

八卦占いで駆け落ち

 それにしてもである。初対面の娘に半日でプロポ―ズ。妻のある身だった。

 晋三は東京高商(現・一橋大学)入学前、従姉である茂登子と今でいうところの“デキ婚”をしていた。茂登子は2児の子を持つ未亡人で晋三より9歳も年長だった。

 二十数年間添い遂げ、2人の子をもうけたが死別。晋三は糟糠の妻と書いている。

 帝人の秘書だった女性と晋三は2度目の結婚をする。この結婚生活は惨憺たる結末を迎えることになる。3番目の妻となる政子が現れたからだ。

《毎日毎日おとうちゃんから、全部で246通のラブレターが来たのよ。(中略)その前にね、伏線があるの。ホントは許婚がいたの。親が決めた人。海軍軍医中佐でね。で、八卦で占いをしてみたら「許婚とは絶対に添い遂げられない、おとうちゃんのほうこそホントのご主人になる人だ」って言われたのよ。そしたら許婚はソロモン沖で戦死しちゃった。昔は占いなんて迷信やって信用してなかったんやけど、ゆうたことが全部当たっちゃったのよ(笑)》(前掲インタビュー)

 政子は「八卦」の占いを信じ、駆け落ちを敢行する。この時、政子24歳、晋三は51歳だった。

 1947(昭和22)年、帝人の社長になっていた晋三は参議院選挙に初当選。翌年発足した吉田茂内閣で商工大臣に就任する。1950(昭和25)年にようやく離婚が成立し、政子は正式に3番目の妻となる。結婚式はあげなかった。現職大臣と不倫の末の略奪結婚と言われた。

官吏の道を断念

「おとうちゃん」の大屋晋三は1894(明治27)年、群馬県邑楽郡佐貫村(現・明和町)に生まれた。父は小学校の校長をしていた。中学に入る頃には家計が厳しくなり、晋三は前橋で歯科医を開業していた従兄の家に書生として住み込み、前橋中学へ通う。中学生時代に初めて他人のメシを食べた晋三は、その辛さ、苦しさをいやというほど味わった。

 中学を出ると、郷里の高等小学校の代用教員となった。1913(大正2)年、代用教員時代に貯めた30円を持って上京。日本橋室町の三越本店前の大塚公証人役場の筆生となる。上京の目的は一高、東大を出て官吏になることだった。苦学しながら6年間の課程を終えることは難しいと考えた晋三は、本科4年で東京高商へ進んだ。

 晋三は1918(大正7)年、東京高商を卒業する。官吏になることは断念し、民間企業へ就職することにした。第一次大戦後の好況期で、就職は比較的容易だった。級友たちは三井、三菱、住友などの大財閥や、日本銀行、日本郵船などの日本が社名の大手を選んだが、晋三は既に基礎が固まった会社に入る気はしなかった。

次ページ:鈴木商店に入社

前へ 1 2 3 4 5 次へ

[2/12ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。