「大屋政子」の毀誉褒貶 資産は300億円、“おとうちゃん”が再生した帝人の手のひら返し

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鈴木商店に入社

 晋三があれこれ物色しているうちに目が止まったのが、新興の貿易商社・鈴木商店だった。

《「この戦乱の変遷を利用して大儲けをなし、三井、三菱を圧倒するか、しからざるも彼らと並んで天下を三分するか。これ鈴木商店全員の理想とするところなり。小生、これがため生命を五年や十年縮小するもさらに厭うところにあらず」――。第一次世界大戦ただ中の一九一七年(大正六年)十一月、金子直吉がロンドン支店長の高橋誠一(後の日商会長、現双日)に送った毛筆の手紙の一節である》(『20世紀日本の経済人』日経ビジネス人文庫)

 大番頭である金子直吉にとっても、鈴木商店の歴史においても、この頃が絶頂期であった。

 1914(大正3)年7月、欧州で第一次世界大戦が勃発。明治末期からの不況に開戦ショックが重なり、日本の貿易・海運業界は大混乱に陥った。

 金子は世界各地に配した駐在員からの情報をもとに戦争の長期化を予測。11月には「鈴木の大を成すはこの時にあり」と宣言して、あらゆる商品・船舶の一斉の買い出動を号令した。金子の読みは見事に的中。まもなく始まった諸物資の世界的急騰によって鈴木商店は巨利をあげ、一躍、当時の最も大きな商社にのし上がった。

 1917(大正6)年の年商は15億4000万円。それまで業界トップだった三井物産の10億9500万円に大きく水をあけた。この鈴木商店の年商は、当時の国民総生産(GNP)の10%相当したというから、物凄い金額だったことになる。

新入社員でも辣腕

 大屋晋三は鈴木商店の絶頂期に入社したことになる。日本経済新聞の『私の履歴書』(1958[昭和33]年5月に1カ月間連載)にこう書いた。

《鈴木商店は私の期待にそむかなかった。新興の会社だけにすべてが自由で積極的である。躍進途上の会社なのでまだ人がそろわず、したがって新入社員といえども十分に腕を振う機会が与えられた。私は入社して間もなく樟脳(しょうのう)部に入り樟脳と薄荷(はっか)の取引にあたったが、これは当時おもしろいほどもうかる商売だった。私の責任で一日に当時の金で百万円(現在の数億円)もの取引をしたこともあるし、薄荷の建値を一日の間に七十円から百円もつり上げたこともある。第一大戦末期の好況期ではあったが、既成の会社だったら学校出の若僧にこんな大きな権限は与えなかっただろう》

《1921(大正10)年からはポートサイドの出張員になった。(中略)二、三カ月もたち出張所の事情がわかると、自分独自でどんどん仕事を始めた。カイロ、アレキサンドリアからギリシャ、レバノン一帯から地中海のコルシカ、マルタ、さらにはウクライナ方面にまで足を延ばし、本当にじゃんじゃん商売をやった》

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