「大屋政子」の毀誉褒貶 資産は300億円、“おとうちゃん”が再生した帝人の手のひら返し

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常務になった晋三

 金子直吉は1866(慶応2)年、土佐(高知県)吾川郡名野川村(現・仁淀川町)の生まれ。家が貧しく学校にも行けなかった金子は、高知で丁稚奉公しながら独学。1886(明治19)年、満20歳で神戸に出て、雑貨商の鈴木商店に雇われる。創業者の鈴木岩次郎が94年に急死、その夫人の鈴木ヨネが金子と柳田富士松の2人の番頭に経営を全面的に任せた時から、金子の類まれな商才が開花する。

 1898(明治31)年、日本の植民地になったばかりの台湾に渡り、初代民政長官の後藤新平と面会。台湾産樟脳を専売制にしようとしていた後藤を全面支援する見返りに、翌年には樟脳油65%の販売権を取得することに成功した。

 当時、樟(クスノキ)から抽出された樟脳は医薬品や防腐剤などに幅広く使われ、なかでも台湾産は世界の需要の8~9割を占めていたから、これが鈴木商店が大商社に飛躍する第一歩となった。

 これから記すエピソードは財界人思想全集『経営管理観』野田一夫編集・解説(1970年9月刊、ダイヤモンド社のうちの小伝・金子直吉)に基づく。

 三菱レイヨン(旧新光レイヨン)の社長を務めた賀集益蔵は鈴木商店で金子の下で働き、経理を担当していたが、「金子はあまりに偉すぎたため事業に失敗した」と分析する。

「すべて国家的な見地に立って事業をやっていた。金子さんには私利私欲がまったくなかった。たくさんの事業を興しましたが、自分で株を持つことはなかった。所有欲がまったくないわけですね」と語った。「だから家族の方はずいぶん困られたようです。何しろ金子さんが亡くなった時(昭和19年)貯金は8円から9円しかなかったのですから……」

 親会社の倒産により存亡を憂慮された帝国人造絹絲は、最新鋭の岩国工場がフル操業に入っていたことと人絹糸の将来性が高く買われ、最終的に独立独歩の道を歩むことになった。晋三は帝国人造絹絲に移っていたことが幸いし、失業の憂き目にあうことなく、岩国工場長、広島工場長を歴任。そして1942(昭和17)年、取締役となり、敗戦の色濃くなった1944(昭和19)年に常務に昇進した。

政治家へ転身

 1945(昭和20)年8月15日、敗戦。廃墟から繁栄への道へと突き進む戦後10年余の時期に、技術、組織、経営はドラスチックに変わった。

 占領軍による財閥解体、経営者の公職追放により、財閥の家族や財閥企業役員と戦争に協力した大企業の役員、6000人近くが退職を余儀なくされた。

 公職追放により日本の大企業の経営者の平均年齢は10歳以上若返ったと言われた。経営者の世代交代が一気に進んだ。一介のサラリーマンにすぎなかった若手が急に引き上げられ、源氏鶏太が小説『三等重役』で描いたような時代が、まさに出現した。戦後の日本経済の復興は、彼等『三等重役』が担った。

 晋三は世代交代を人生最大の転機と捉えた。政治家になることを選択した。政治家への夢は30歳前後の頃からあった。鈴木商店時代に「立憲青年党」と名付けた政治団体を結成したこともあった。

『私の履歴書』にこの頃の心境を吐露している。

《後に代議士に当選し明政会で鳴らした藤原米造と、同志を募って「立憲青年党」を結成した。そして藤原と相談して「アジアはアジア人によって……」をスローガンに全アジアを遊説する計画を立てた。私は鈴木商店を辞めて遊説を決行する考えだったが、費用その他のことから実行に至らなかった。(中略)私の生涯で一番ヨロメイた時期だ》

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