【袴田事件と世界一の姉】味噌タンクに「5点の衣類」を放り込んだ警察の大胆な捏造工作

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「国はね、巖(いわお)が死ぬのを待ってるんでしょ。冗談じゃない、私は百歳まででも戦いますよ。死んでたまるか、です。もちろん弟には長生きしてもらわにゃ。でも、巖がここにいてくれるだけで、私は嬉しいんですよ。ワハハハハ」。静岡県浜松市の自宅で豪快に笑うのは、袴田ひで子さん(88)である。(連載第1回・粟野仁雄/ジャーナリスト)

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 1966(昭和41)年6月30日に静岡県清水市(現・静岡市清水区)で、味噌製造会社「こがね味噌」の専務一家4人が殺害された上に、自宅が放火された。これがいわゆる「袴田事件」の発端である。

 この事件の犯人として、強盗殺人罪などで死刑が確定し、半世紀もの間、拘置されていた元プロボクサーの袴田巌さん(85)について、2014年3月27日、静岡地裁は再審開始と死刑及び拘置の執行停止を決定(村山浩昭裁判長)。これを受けて、巌さんは47年7カ月ぶりに釈放されることとなった。30歳で逮捕された男は、この時すでに78歳だった。

 2018年6月、拘置の執行停止の決定は東京高裁(大島隆明裁判長)で取り消されたが、再収監されることはなかった。現在、85歳の巖さんは、浜松市で姉のひで子さんと二人で暮らす。東京拘置所内で半世紀近く「濡れ衣」の不条理と戦いながら、毎日「死の恐怖」に怯えて暮らした巖さんには、強い「拘禁症」症状が出ており、その言動は今も多くが支離滅裂なままだ。

「あんな所に50年近くも閉じ込められりゃ、頭がおかしくなって当然。恥ずかしいなんてこれっぽっちも思いません。弟を連れてどこでも行きますよ」とひで子さんは意に介さない。

 33歳の時、突然「殺人犯の姉」となってからは、日常は奪われ、苦難の道を歩まざるを得なくなった。それにもかかわらず、自身の境遇について恨みつらみ一つ言わず、時に豪傑笑いを交えて明るく振る舞うひで子さん。一体あの若さと活力はどこから来るのだろう。

 今秋、高齢者の仲間入りをする筆者は、取材名目で「元気を分けてもらいに」、神戸から浜松に通っている。国家権力が決して勝てない袴田ひで子さんを軸に、世紀の死刑囚冤罪事件を時代背景も織り交ぜて連載する。

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