女子初の五輪出場「人見絹枝」を悩ませた固定的なジェンダー観と世間の目(小林信也)

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「ジェンダー平等」が主要テーマに掲げられた東京2020。女性アスリートの盗撮被害などの問題も改めて提起された。

 オリンピックはそもそも女性を拒否していた。近代オリンピックの創立者と呼ばれるクーベルタン男爵は、常に尊敬の対象のように語られるが、女性の参加を強く拒んでいたのはそのクーベルタンだった。

 彼が2代目IOC会長を退いた1928年アムステルダム五輪から女性の参加が正式に認められた。その大会で銀メダルを獲得するなど、女性スポーツの黎明期に世界的貢献を果たしたのが人見絹枝だ。

 金メダルを狙った女子100メートル準決勝で4位に敗れ、決勝進出を逃した。その雪辱のため、一度も走った経験のない800メートルに出場、2位に入った。ゴール後は意識を失い、うつぶせに倒れたと伝えられている。

 絹枝はなぜそこまでメダルに執着したのか。「負けたら国に帰れない」、そう思わせる社会の空気は想像できる。だが、執念が深すぎる。絹枝の行動が強迫観念や「根性」によるものだけなら、ここまで我々の心を奥底まで揺さぶるだろうか。

「お嫁に行けなくなる」

 同じ時代に、寺尾姉妹というスターが陸上界に現れた。絹枝と寺尾姉妹が常に優勝を争うライバル関係が生まれた。可憐な姉妹はたちまち世間の人気を得た。絹枝はライバル登場を歓迎し、「あとひとりそろえばリレーでメダルが獲れる」と胸を躍らせた。ところが、寺尾姉妹は五輪を前に陸上競技を離れる。きっかけは、作家・久米正雄が二人をモデルに書いた連載小説だった。良妻賢母を尊ぶ社会通念の中、通俗的恋愛小説のモデルにされ、「これではお嫁に行けなくなる」と憤怒した父母が寺尾姉妹を陸上の舞台からおろしたのだ。

 絹枝が懸命に説得したが叶わず、夢は儚く消えた。絹枝の落胆を思うと胸が苦しくなる。彼女は、女性スポーツへの無理解に打ちひしがれ、いっそう使命感を高めたのではないだろうか。

 新たな扉を開く挑戦を続けた絹枝の話を私は幾度となく書いた。だがひとつの側面には触れずにきた。

 その側面とは、ぶしつけに触れがたいテーマだが、無遠慮に記した当時の記事を先に紹介しよう。絹枝が亡くなった1931年8月2日翌朝の東京朝日新聞。見出しは〈三世界記録輝く男性的な女巨人〉とある。

〈我国女子陸上競技界に太陽の如くさん然と光り輝いてゐた人見さんがポックリ巨木を倒す如く死んでしまった。五尺六寸十五貫の男とさへ見える浅黒い巨体。見事に発育した筋肉。(中略)外国の一婦人記者から「貴女は本当に女ですか」ととてもぶしつけな質問を浴びせられて憤慨したといふ逸話もある位普通の女子とは一寸けたの違った巨人であった〉

 絹枝自身、固定的なジェンダー観の中で、思い悩み、苦しんだ様子が窺える。

 毎日新聞入社後、絹枝は二階堂体操塾(現・日本女子体育大)の後輩ふたりと同居した。そのひとりと同性愛の関係だとの噂が世間を騒がせたこともあった。

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