女子初の五輪出場「人見絹枝」を悩ませた固定的なジェンダー観と世間の目(小林信也)

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享年24、生前の言葉

 作家・宮尾登美子は「栄光の天才ランナー人見絹枝」(『近代日本の女性史』所収)と題する文章の中で、

〈人気者の宿命として、その私生活が世間の好奇心にさらされるという悲劇も避けることができなかった〉

 と書いた上で、絹枝が書いた一節を紹介している。

〈女子競技界の現状が、あまりにも今までの日本の女性観を打ち破って目ざましいともいえよう、驚異ともいえよう、(中略)こうして陣頭に立った私は、現代の女性スポーツを代表して、女子選手を代表して、人たちからどれだけの世評を浴びせられ、好奇の目で見られ、無遠慮な質問をかけられたか、それは今でも続いている。しかし私は十九、二十とまだそのころはスポーツに親しむそのよろこびよりも、これら世間の人々から受けるいろいろの言葉はたえがたい苦しみであった。今の私は、ついに麻痺(まひ)して当然受けるべき、そしてそれに解答すべき義務のある体位に覚悟をもっています〉(「女としての私の日常生活」)

 続いて宮尾が述べている。

〈決して巧みな文章とはいえないが、世間に対する憤懣(ふんまん)、また自分の使命感、将来に向かっての理想など、ほとばしり出るような強いものがみなぎっている。〉

 私が絹枝を敬愛し魅かれるのは、幼い体験と結びついているからかもしれない。私はメソメソした少年で、「お姉ちゃんがつけ忘れたのをつけてきた」としばしば言われ、「男らしくない」とよく叱られた。当時の大人は平気でそんな言い方をした。自分では傷ついた自覚もなかったが、成人して「男らしさ」への異様な執着を内面に感じるようになった。誰もが、語りはしないがこうした体験や痛みを秘めているかもしれない。

 海外で活躍する日本人がまだ少なかった時代、絹枝は根源的な悩みを乗り越え、欧米で「ワンダフル・ヒトミ」と呼ばれて敬愛された。24歳の若さで病死した絹枝を悼み、没後チェコのプラハには顕彰碑が建てられた。国境を超えて永遠に語り継がれる人間でありたいという願いは、世界の舞台で活躍した者なら誰もが抱くのではないか。その憧憬を100年近く前に体現した絹枝の勇ましさに、胸が震える。その崇高さに、女も男もない。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

週刊新潮 2021年10月7日号掲載

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