東京電力と右翼の黒幕「田中清玄」(最終回) 晩年は地球環境問題に目覚めた“革命家”(徳本栄一郎)

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 龍澤寺は静岡県の三島市郊外、沢地の山林に佇んでいる。ここは禅宗の高僧、白隠禅師が開いた寺で、今も雲水たちが修行に励む。今年3月11日、鬱蒼と樹木が茂った参道を登ると、やがて視界が開けて墓地が現れた。

 その一角に進むと、「田中家」と刻まれた黒ずんだ墓石が目に入った。左に墓誌の石碑が並び、「平成五年(1993年)十二月十日 田中清玄 八十七才」とある。案内してくれた元秘書の林賢一が、持参した花を供え、線香に火をつけた。晴天の空から陽光が降る中、彼と並んで手を合わせる。

 かつて「東京タイガー」と呼ばれた国際的フィクサー、田中清玄は、この里山のような風景の中で眠っていた。

 生前は右翼の黒幕として知られた田中だが、その生涯は波乱万丈の一言に尽きた。戦前は武装共産党を率い、11年を獄中で過ごすが、母の自殺で転向を決意した。戦後は、過激化した共産党に対抗して電源防衛隊を組織、ヤクザも動員して発電所を守り、それがきっかけで、東京電力などとつながりが出来る。(第1回「共産党の発電所破壊工作を阻止した男」

 60年代は、山口組3代目の田岡一雄組長と麻薬追放運動を行い、右翼の児玉誉士夫と対決、狙撃されるが奇跡的に命を取り留めた。(第2回「彼はなぜヤクザから狙撃されたのか」

 また中国の鄧小平、インドネシアのスハルト大統領、欧州の名門ハプスブルク家の当主オットー大公らと絢爛たる人脈を築く。

 さらに単身中東へ乗り込み、アラブ首長国連邦のザーイド大統領と深い絆を持った。それが縁で、アブダビの海上油田権益を日本にもたらし、恩恵を受けたのが、火力発電の燃料に苦慮する電力業界だった。そうした足跡が、東京電力も含む、各社の社史から丸々消されているのは前編までに述べた。(第3回「石油権益をもたらしたアブダビ首長との出会い」

 だが、もし本人が生きていても、そんなことはさほど気にしなかったかもしれない。80年代に入ると、すでに彼の関心は石油から離れてしまったからだ。晩年の田中が情熱を注いだもの、それは地球環境問題と再生可能エネルギーであった。

 1976年の初夏、古希を迎えた田中は、それまでの建設や石油の事業から離れ、総合人間科学研究会なる組織を立ち上げた。各界リーダーに国際情勢の情報を提供し、勉強会を催すもので、設立の際、彼がしたためた文章がある。

 友人や知人らに送ったもので、「高度経済成長の明暗」「人心の全世界的荒廃」など見出しが並び、まさに檄文と言ってよかった。

「人類は、日本人をも勿論含めて、今や、自分等がこのまま生存し得るか或いは衰滅の道を転落して行くかの、人類生存史上空前とでも云うべき根本的な転換期に差しかかり、人類と云う自分自身の社会生活根底からの見直しと再生を迫られて居ります」(「『綜合人間科学研究会』の設立に際し各界の指導者諸氏に訴える」)

 20世紀に入り、人類は大量生産、大量消費の経済を築き、一部先進国は未曽有の繁栄を享受している。だが、資源とエネルギーの浪費は将来の枯渇を招き、食料不足や人口爆発、大気圏の汚染など深刻な脅威を招きかねないという。

「此の日本の国運を双肩に担う指導的政治家や経済人・言論界人・学者等の任務は並大抵のものではありません。我が国の指導的地位の人々は絶えず激動する世界と国内の諸情勢から寸時と雖も眼を離さず、世界と日本の底流として盛り上がる人心の動向と実相を的確に逸早く読み取り、その現実に立って明確な我が国の前進の方向づけを具体的に確立し、巨視的視座に立つ個々の生きた現実の方策を樹立し、強力に推進すべきことは、云うまでもありません」(前掲資料)

 二酸化炭素の濃度上昇と温暖化が指摘される今なら、ごく自然に響くかもしれない。だが、まだ高度成長の余韻が残る当時、ここまで危機感を露わにするのは奇人扱いされる恐れもあった。

 その田中が環境問題に目覚めたのは、石油を求め、中東や欧州を駆け巡った体験からのようだ。後に自伝やインタビューで、こう述べている。

「しかし、実際のところ油はもう限界です。埋蔵量に限界があるし、大気を汚染する。地球温暖化の問題もある。だから太陽エネルギーに切り替えるべきなんです。私はそのことを石油危機以来ずっと主張してきたのです。この二十年間、その研究を日本や欧米の各会社が本気でやっていたら、多分、湾岸戦争なんか起きなかったでしょうな。これは世界の指導階級の重大な過失ですよ。石油の次に天然ガスといわれたけど、これだって化石燃料で、埋蔵量には限界があるし、害は免れ得ない。根本的な公害対策がいまのところないんです」(「田中清玄自伝」)

「それはその日暮らしの日本の欠点でもあるし、ひとつは、石炭石油のあとはウラン原子力でいこうというのがメジャー・カンパニーの戦略で、ウラン鉱を開発したから、それで、田中清玄、いらんことをするな、というようなことになった」(「月刊プレイボーイ」81年3月号)

 石油権益で産油国や国際石油資本と渡り合ううち、地球温暖化の脅威に気づいた。それは戦後、命を懸けて戦ってきた共産主義と同じ、いや、それ以上の危機をもたらすかもしれなかった。

 むろん、いきなり太陽では、石油に代わるエネルギーたり得ない。田中は、つなぎとして石炭の微粒子化、無公害液化、またガソリンの代わりに液体水素を使い、それを海水から抽出するのに太陽熱の利用を提唱した。

 いずれも今日なら、リベラルな環境活動家がこぞって口にしそうで、一部は実現化の動きもある。それを、山口組の組長と親友である右翼の黒幕が、真剣に訴えていたのだった。

 こうした試みは、一部でドン・キホーテのごとく扱われたが、本人は気にせず、自ら実践しようとしていた。アラブ首長国連邦の海洋微生物蛋白資源開発も、その一つだ。

 70年代半ば、田中はザーイド大統領に会い、アブダビ沖の海水から太陽熱で蛋白質を作るプロジェクトを提案した。これから飼料や食料を生産する狙いだ。豊富な石油資源もいずれ枯渇する、その時いかにして国家の命を保つか、それには無限のエネルギーの太陽と汚染されてない海水を使うべき、という。

 結局、これは技術的問題で頓挫するが、交渉記録を読むと、何と田中側が初期の準備費用を負担した。それは同志の絆を結んだザーイド大統領、油田を日本に譲ってくれたアラブへの、せめてもの恩返しだったかもしれない。

 前編でも触れたが、生前の田中は「国士」とされる一方、「政商」や「利権屋」と毀誉褒貶が激しかった。油田権益で巨額報酬を手にしたせいで、山口組とのつながりも、おどろおどろしいイメージを広げた。

 だが、ただの利権屋なら、一銭にもならない地球環境問題など着目しない。まして、自腹で再生可能エネルギーに取り組むはずもなかった。本人の弁は、こうである。

「どうしてもエネルギー問題を解決せにゃいかん。どうしても戦争を阻止する。民族、日本、アジア、人類―それがなかったら、金もうけなんかの動機でこれだけ体を犠牲にしてやれますか」(前掲「月刊プレイボーイ」)

 面白いのは、脱石油を訴えつつ、機運が高まった原発には真っ向から反対していたことだ。その著書から引用する。

「私は原爆ばかりではなく、平和利用という名の下での原子力そのもののエネルギーへの転用にも反対である。というのは、それは根本的に有機体組織を壊滅させるものであることと、放射能もれというものは現代の科学では防ぎようがないからである。それが継続すると、地球上の生命を支え合っているバランス、生物、微生物を含めて二〇〇万種とも言われる種社会、つまり生物全体のバランスをこわしてしまうのだ」(「世界を行動する」)

 そして、科学者は細部に拘って全体を見ない、その背後には、儲け主義の営利会社がいると批判した。

 田中の墓を訪ねた3月11日は、ちょうど東京電力の福島第一原発の事故から10年目だった。あの事故では、安全神話に溺れた電力会社、利益至上主義の原発ムラが指弾を受けた。それに思いを馳せると、預言的な響きすらあった。

 こうした一見不可解な、右翼なのにリベラルな、時代の潮流を予見するような行動、それはいつ、どうやって芽生えたか。じつは、その答えがあるのが三島の龍澤寺、名僧と言われた山本玄峰老師だった。

 和歌山出身の老師は、大正時代に荒れ果てていた龍澤寺の住職となり再興させる。昭和の初めに東京で接心会を開き、政財界に多くの帰依者を生んだ。終戦時は、鈴木貫太郎総理に無条件降伏を密かに勧告したとされる。そして、刑務所で11年を過ごした後、田中が身を寄せたのが玄峰老師であった。

 その頃の彼は共産主義を捨てたが、それに代わる道が分からず、苦悶していた。そして、龍澤寺での最初の修業が典座、いわゆる飯炊きだった。だが、それまで炊事場など入ったこともなく、しょっちゅう焦げ飯を作ってしまう。そこへ老師が顔を出し、「もったいないこっちゃ」と口に入れ、冷や汗をかいたという。

「それから時々回ってくると、私の顔を見て『あんたは殺生しとるな』と言われるが、禅寺のことで鳥や魚を料理しているわけではないから、そう言われてもこっちは何のことかさっぱり分からない。三ヵ月ぐらいたって、どうにかまともな飯が炊けるようになった頃、老師は『あんたもやっと殺生せんようになった』と言われた。それで僕も、なるほど物の味を生かすのが料理で、それを生かさぬのが殺生かと。そうすると今度は、物の価値を生かすのは経済で、人と物の価値を最大限生かすのが政治だなと、ピーンときた。これが龍沢寺へ行って、悟りというものの入り口に立った最初の出来ごとでしたね。毎日、毎日飯炊きをやった末のことでした」(「田中清玄自伝」)

 彼は、こうした修業が、自分のエネルギー人生の始まりだったと言う。実際、生前の発言を見ると、明らかに禅の教えが人生観や世界観に影響したのが伺える。

 その帰結が地球環境問題だが、今や、温暖化は人類の喫緊の課題になっている。脱炭素化や持続可能な社会、ESG(環境・社会・企業統治)投資が叫ばれ、各国はこぞって温室効果ガスの削減を掲げる。再生可能エネルギーが脚光を帯び、もはや、田中をドン・キホーテとする者はいないはずだ。

 その原点がここ龍澤寺だが、田中の墓へ案内してくれた元秘書の林が、こんなエピソードを明かした。

「晩年になっても、清玄先生と東京電力の関係はずっと続いてましたよ。先生の指示で、国際情勢のレポートを届けると、向こうの窓口は那須さんでしたね。こっちの都合で遅くなっても、ずっと一人で、本社で待っててくれたのを覚えてます」

 那須翔は、終戦直後に東京電力の前身の関東配電に入社し、主に総務畑を歩んだ。80年代から90年代に社長と会長も務めた、名実共に電力業界の重鎮だ。

 晩年の田中が、彼らに、どんなアドバイスをしたかは分からない。中東や欧州の情勢なのか、あるいは原発、地球環境問題への警告だったか。いずれにせよ、終戦直後に生まれたつながりは、松永安左エ門、木川田一隆から世代を超えて受け継がれていた。

 ここまで4回にわたり、「東京タイガー」田中清玄を追ったが、とても一筋縄ではいかない、複雑な人物だったのが分かる。

 戦前は左翼運動に没頭し、武装共産党を率いた男、それが母の自殺を機に転向、戦後は過激化した共産党に対し、荒くれ男の電源防衛隊を指揮した。

 やがて海外へ飛んで、中東の指導者を通じ、いくつもの石油権益を日本にもたらす。そして、まだ世間の関心もない頃から地球環境問題、再生可能エネルギーを訴えた。行く先々で波乱を起こし、それが数々のドラマを作り、彼の人生を追うことが、そのまま大河小説になるような物語が生まれたのだった。

 強烈なナショナリストだが、世間の右翼とは明らかに一線を画す。電源防衛や石油獲得で鬼神の如く行動したと思えば、リベラルな環境活動家の顔も見せた。右翼の黒幕だが、軍国主義の復活を警告、気骨ある左翼活動家を支援した。こうした脈絡のなさが周囲に波紋を投げ、困惑させたが、本人は「俺は自由人だ」を口癖にしていた。

 結局、田中清玄とは何だったか。終戦直後から晩年まで側近だった太田義人が、苦笑いして、こう答えたのを覚えている。

「本当、田中のところにおって、こんな人についていけない、辞めようと思ったこともありますよ。『あんたの話は支離滅裂で、何言ってるか分からん』って。でも、田中は土建屋でも政治家でもないし、なんて言うか、革命家なんですね。複雑怪奇なんだが、本人にすれば一貫してるんで。財界の人も本当に分かってる人はいいけど、普通の人は付き合わんでしょ。ただ、夢を与える人だったね。私も色んな人に会ってきたけど、まぁ、とにかく圧倒されるよ。本人にもよく言ったけど、『あんたは、極端に言えば極悪非道かもしれんけど、一片の仏心があるから救われてる』って。やっぱり、仏心と言うか、信仰心みたいなのが最後に出るんです。侍の意識がありますから」

 その太田も4年前に世を去ったが、亡くなる前、田中の長男に「色々あったけど、面白かったなぁ」と声をかけたという。そして、かつて田中清玄の自伝が出た際、本の表紙の帯には、こうあった。

「日本でいちばん面白い人生を送った男」

徳本栄一郎(とくもと・えいいちろう)
英国ロイター通信特派員を経て、ジャーナリストとして活躍。国際政治・経済を主なテーマに取材活動を続けている。ノンフィクションの著書に『エンペラー・ファイル』(文藝春秋)、『田中角栄の悲劇』(光文社)、『1945 日本占領』(新潮社)、小説に『臨界』(新潮社)等がある。

デイリー新潮取材班編集

2021年4月6日掲載

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