“対面で会う”ってそんなに大事ですか?(古市憲寿)

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 緊急事態宣言が解除されるやいなや、対面での打ち合わせを求められる機会が増えた。ある老舗雑誌からも、リモートではなく出版社まで来て対談をして欲しいと言われた。もちろん断ったのだが、物理的に「会う」という行為は、新型コロナウイルスくらいでは衰退しなかったようだ。

「人間はオンラインだけで相手を信頼することができない。だから実際に会って、向き合って話すことが大事なのだ」。そんな議論があるが、端的に言って嘘だと思う。

 もちろん対面接触における情報量の多さは否定しない。ZoomやTeamsを使ったオンライン会議では、どうしても画質や音質に限界がある。参加者に不慣れな人がいると、議事進行がもたついたりもする。

 しかし人類の歴史のほとんどは、「オンライン」以下の、非常に希薄な関係によって形成されてきた。

 たとえば古代日本は一時期、中国と冊封関係にあったが、魏の皇帝と卑弥呼はただの一度も首脳会談なんて実施していない。大陸への渡航が命がけの時代、国のトップが平時に海外へ行くことはまずあり得なかった。

 彼らがコミュニケーションとして用いたのは書簡や使者である(しかも日本の権力者が文字を使用するようになるのは、卑弥呼の時代からさらに数百年後だった)。国と国が主従関係を結ぶという重要な意志決定さえ、当人が会わずに済ませていたのだ。

 個人的な関係も同様である。国内の移動でさえ大変な時代、子どもが親元を離れて働きに出る場合、それが今生の別れということも多かっただろう。「親に定期的に顔を見せる」なんて規範が誕生したのはあまり昔のことではない。

 人類の長距離移動が技術的に容易になったのは19世紀、大衆化したのは20世紀のことである。日本の総理大臣の外遊が一般的になるのは戦後のことだ。戦前における現職総理の外国訪問は伊藤博文の中国訪問、西園寺公望の満州視察、東条英機の中国や東南アジア訪問くらいしかない。昭和天皇も皇太子ではなく「天皇」として初めて海外を訪れたのは1971年である。

 考えてみれば、インターネットやSNSが普及するまで、日本の人々は「年賀状」という非常に脆弱なツールで関係を維持していた。年にたった1回、しかも下手をしたら1行程度の短い言葉だけでつながっていたのである。

 昔は電話料金も高かった。特に国際電話なんて数千円かかることも珍しくなかった。今や、コミュニケーションはほぼ無料といっていい。

 つまり、これほどに人間同士が密につながっている時代もないのだ。そんな中、わざわざ対面接触をすることに、どれほどの意味があるのか。新型コロナウィルスの騒動が収まっても、季節性のインフルエンザをはじめ、感染症のリスクはずっと続いていく。「人と会うこと=感染症をうつし合うリスクがある」とわかった今、どうしてもという人以外とは、永遠に会わなくてもいいかなと思う。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2020年6月18日号掲載

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