勝新太郎は「真性のミュージシャン」だった 「不知火検校」で一気に変転

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湯浅学「役者の唄」――勝新太郎(1)

 1997年にこの世を去った勝新太郎(享年65)は、名優であると共に名歌手でもあった。音楽評論家の湯浅学氏が、勝の「唄」の魅力に迫る。

勝新さんの「歌う気」

 1982年に発表された勝新さん歌うアルバム「ザ・マン・ネバー・ギブ・アップ」をCD化したい、と思い、93年に勝プロモーションを訪ねた。本人の許諾を得るためだ。

 勝新さんは、CDにしてくれるのはありがたいんだが、あのレコードにはちょっと気に入らないところもあるので録音し直したい、とおっしゃる。ほんとうは全部歌い直したいんだが、だめなら2曲だけでもいい。費用は俺が出すから。どうだ?

 どうだ?と言われても、マルチのマスター・テープが残っているならともかく、通常のアナログ・ステレオ・マスター・テープでは、演奏はそのままに歌だけ入れ直すことは技術的に無理です。と伝えたが、それなら演奏も録り直せばいいじゃないか。バンドは俺が雇うから。と、勝新さんは譲らない。2曲だけならそんなに時間もかからないだろう、どうだ? それはものすごくやってみたい、お願いしたいことである。しかし、そのとき俺はレコード会社の人間だったわけではなく、ただの外部スタッフ、監修を頼まれただけの人間であって決定権はない。

 結局、これはこれでこのまままず出すことが、当時を知らない人たちにはありがたいことですので、そこから始めませんか? たぶん昔と同じサウンドを再現することはできませんから、これをCD化して、そのあとで新しいアルバムとして改めて考える、というのは、いかがでしょうか?

 そのとき、レコード会社の人はそのように勝新さんを説得した。

 ようするに先延ばし作戦に出たわけだが、今になると、なぜあのとき強引に、やりましょうと言えなかったのか悔いが残る。実際には、本人に歌う気が至極自然に、平素から保持されていることを、そのとき直に確認できたことに感動していたのだ。

 このとき、勝新太郎は俳優であるとともに真性のミュージシャンである、と俺は深く思った。「俺はいつだって歌うし三味線も弾くんだよ」と、言わずもがなで伝えていた。

 勝新太郎は俳優である以前からミュージシャン/音楽家である。

 父親は長唄三味線の師匠、杵屋勝東治。勝新太郎(奥村利夫)は7歳で父に弟子入りし、10代で稽古代、20歳のときに二代目杵屋勝丸を襲名した。三味線の腕は独自のもので、伝統的な演奏だけではない、自分でアレンジをしたりアドリブで楽しませたり、創作もした。父親からはそうした“はみだし芸”をよく思われなかった面もあったが、勝丸は方々に“お得意様”を作るほどの才の持ち主だった。

 しかし、勝丸のままでは“表舞台”で知られることはないだろう。幼少時から御簾(みす)の裏から数々の名優の芸を見て育ち、その芸を真似ることにも長けていた利夫青年は、22歳のときに持ちかけられた映画界入りの話に、すんなりと乗った。勝丸は勝新太郎になった。

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