「ペルー日本大使公邸人質事件」 大使夫人が夫に送った暗号文書

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幻と消えた映画化

「事件後、フジモリ大統領から聞いた話ですが、当時のキューバ・カストロ首相がセルパに“何という馬鹿なことをしてくれたんだ”という内容の手紙を書いたらしい。大統領は、“カストロが『気持ちはわかる』くらいのことを書いていてくれたら、彼らも死なないですんだかもしれないな”と言っていた」(青木元大使)

 この書簡を受け取って以降、セルパは交渉に応じなくなった。当時の官房副長官・与謝野馨氏は、

「土地勘もないし、実働部隊がいるわけでもない。どんな情報が来てもそれを生かす術がなかったし、人質の無事を祈るしかなかったのです。但し、機材や資金等は提供する用意はありました」

 と回顧する。外部の情報から遮断されていた大使公邸だが、青木元大使は妻から密かに情報を得ていた。

「赤十字の往復葉書のようなものがあり、そこに検閲のためにスペイン語に訳された妻のメモが書かれていた。最初は“セニョール・ヒロシマは今、東京にいます”。池田行彦外務大臣(当時)は広島育ち。池田外相がペルーに来たことは知っていたので、彼が東京に戻ったということはフジモリ大統領と話がついたということ。次は“龍ちゃんから電話がありました”。一国の総理が一介の大使の妻に電話することは絶対にない。これはいかに日本政府が問題を重視しているかということ。次に“肥後もっこすが訪ねてきました”。フジモリ大統領は肥後熊本がルーツ。これで、リフォームした大使公邸の設計図を彼が取りに来たことが判りました」(青木元大使)

 フジモリ大統領は入手した設計図を基に2階建ての大使公邸の完全なレプリカを作り、地下トンネルからの突入作戦を立案。平成9年4月22日、将校だけで編成した特別部隊が7本の地下トンネルから公邸内に突入、セルパ以下襲撃犯14名全員を射殺した。発生以来、127日目の事件解決となったが、日本政府に事前に作戦が知らされることはなかった。事件が一段落した翌年、NHKの江口氏の元に事件の映画化の話が持ち込まれた。脚本は、あの高峰秀子の夫、松山善三だった。

「脚本が交渉役のシプリアニ大司教を軸に描かれているのが大統領の気に入らなかったのか、脚本の手直しや、ハリウッド俳優を使い全世界公開すること、といった注文がつき、何度か協議が重ねられました」(江口氏)

 しかし、平成12年、フジモリ大統領は側近の汚職事件の発覚などで突然、辞任。映画化の話は立ち消えになった。政権を追われた大統領は、人権侵害などの罪で禁錮25年の判決を受け、現在もペルーの刑務所で服役中。娘のケイコは今年、2度目の大統領選挙に挑んだが僅差で敗北した。

 青木元大使が言う。

「あの事件はどちらかというと事故に近い。あれを境にテロリズムの様相が変わってしまい、ソフトターゲットに対する無差別テロが主流になってしまった」

 事件は、日本政府の危機管理体制の不備と非力も露呈した。今後予想される新たなテロに、この教訓はどう生かされるのだろうか。

週刊新潮 2016年8月23日号別冊「輝ける20世紀」探訪掲載

ワイド特集「『世紀の事件』の活断層」より

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