「ペルー日本大使公邸人質事件」 大使夫人が夫に送った暗号文書

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「大変です! 日本大使公邸の門の外と内で激しい銃撃戦が起きています!」――平成8年(1996)12月18日午前10時過ぎ。江口義孝・NHK報道局国際部副部長(当時)に、ペルーの首都リマから緊急電話が入った。電話の主は、江口氏が懇意にしていた、現地の映像制作会社で働く日系人の男性だ。午前11時のNHKニュース速報が、日本外交史上、前代未聞の「ペルー日本大使公邸人質事件」を伝える日本での第一報となった。

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 続いて、その日系人男性がもたらした情報は「今夜、公邸では天皇誕生日祝賀パーティーが開かれている」という衝撃的なものだった。

「青天の霹靂。驚愕の情報でした。邸内には招待されたペルー政府要人、各国大使、日本企業代表者、日系人たちがいる。青木盛久大使以下、日本大使館員も勢揃いしている。これは日本を揺るがす大事件になると思いました」(江口氏)

 日本から大使公邸に5分おきにかけられた国際電話に1人の男が出た。「指揮官のウエルタ」と名乗った男は、自らが属する組織名を「トゥパク・アマル」と答え、目的は「仲間の解放」で、日本大使公邸を狙ったのは「日本はフジモリに多額の援助をして貧富の格差を広げているからだ」と主張した。後に判るが、14人の武装集団のリーダーの本名はネストル・セルパで、ウエルタはストライキ中に亡くなった親友の名前だった。

 ペルーに日系のフジモリ大統領が誕生したのは平成2年。国内では「センデロ・ルミノソ(輝く道)」と「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」の2つの反政府武装組織が猛威を振るっていたが、フジモリ政権は徹底した摘発を行う傍ら、農村部の貧困層への援助を通してテロ勢力を弱体化し、2つの組織をほぼ壊滅することに成功していた。「トゥパク・アマル」は400人に及ぶメンバーが逮捕・投獄され、唯一の残存幹部セルパが起死回生の作戦に打って出ざるを得ない状況に追い込まれていたのだ。

 占拠された公邸の主、青木元駐ペルー日本大使が当時の様子を明かす。

「セルパは私に対しては威儀を正し“大使閣下”と呼び、部下が私を呼び捨てにしたときは叱りつけました。この態度は最後まで変わらなかった。襲撃グループの幹部は4人いましたが、全員、セクトが違った。下っ端は単なるアルバイト感覚。“鉄の規律”などはなく、これが彼らの最大の弱点でした」

 セルパは約400名の人質を盾に、フジモリ政権に服役中のテロリストの釈放などを求めた。しかし、「人質の安全が最優先」で「平和的解決」を目指す橋本龍太郎総理(当時)と、「テロリストとの妥協、交渉はあり得ない」とするフジモリ大統領との溝は大きく、シプリアニ大司教を仲介とした交渉は難航した。交渉の中には、人質解放を条件に襲撃犯をキューバが引き受けるというプランもあった。

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