【豊臣兄弟!】家康には秀吉以上にやっかいな相手がいた…徳川を二度苦しめた武将 関ヶ原では秀忠の大軍を足止め

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家康を秀吉への臣従に追い込んだ一因にも

 家康もそこで昌幸を見限ればよかったのだが。天正11年(1583)、昌幸が本拠地に上田城(長野県上田市)を築く際、家康は自分にとっても、越後(新潟県)の上杉氏に対抗する最前線にできると考え、築城を全面的に支援した。ところが天正13年(1585)、家康からあらためて沼田領などの引き渡しを求められた昌幸は、今度は家康を裏切って上杉景勝についてしまった。

 怒り心頭の家康が上田城を攻めて大敗したのが、前述した第一次上田合戦だった。しかも、昌幸はその後、上杉についたまま秀吉に従属してしまう。冒頭で紹介したように『豊臣兄弟!』で秀吉が石川数正に「真田と和睦してもらいたい」と頼んだのは、昌幸が秀吉に従属したからだが、実際、家康はこのとき追い詰められていた。昌幸に裏切られた末に、攻撃しては敗退し、家康の領国内や家臣のあいだからも、このまま家康には頼れないのではないか、という声が多く上がるに至っていた。

 だから、昌幸のせいで家康は、秀吉に臣従しなければならなくなったといっても過言ではない。

 この沼田領問題は、天正17年(1589)、秀吉の裁定によって解決するはずだった。沼田領のうち、沼田城を含む3分の2を北条氏に、名胡桃城を含む残り3分の1を真田氏に与え、真田氏が手放す領土に相当する替地を徳川が補填することでまとまった。

 そして、北条氏政が上洛すれば、一件落着となるはずだった。だが、同年、北条方の沼田城代・猪俣邦憲が真田方の名胡桃城(群馬県みなかみ町)を奪ってしまう。

 激怒した秀吉は北条征伐を決意し、翌天正18年(1590)の小田原攻め、北条氏滅亡、家康の関東移封へとつながっていった。

 要するに、ここまで述べた展開はみな、真田昌幸が沼田領について妥協していれば起きなかった、と思われることばかりである。昌幸が頑固でなければ、家康が関東に移封になることもなく、ひいては江戸、すなわちのちの東京が日本の首都になることも、なかったかもしれない。

関ヶ原後の体制や大坂の陣にも影響をおよぼした

 昌幸はその後も家康を翻弄した。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、徳川の主力部隊を率いた家康嫡男の秀忠は、遅参して決戦に間に合わなかったが、理由は西軍にくみした真田昌幸が籠る上田城の攻略に手間取ったからだった(第二次上田合戦)。

 徳川の主力部隊が関ヶ原に到着しなかったので、家康は天下分け目の合戦を、秀吉恩顧の武将とともに戦わざるをえなかった。このため戦後には、西軍から没収した630万石の領土の約8割にあたる520万石余りを、東軍を勝利に導いた豊臣系大名に加増するしかなくなった。その結果、日本全体の3分の2が外様大名の領土になったが、これも昌幸が秀忠の軍勢を翻弄したためだといえる。

 家康はこの状況に不安をいだき、いずれ外様大名が担ぐかもしれない豊臣秀頼を滅ぼすことに執念を燃やし、大坂の陣につながる。だから、豊臣氏の滅亡の原因も、真田昌幸がつくったようなものだ。

 昌幸自身は、関ヶ原合戦では次男の信繁(幸村)と西軍にくみしたが、長男の信幸(のちの信之)は東軍に加わった。これも、どちらが勝っても真田家が存続するように、との深謀遠慮にもとづく判断で、結果的に信幸は信濃上田藩、続いて同松代藩の藩主となり、大名としての真田家は明治維新を迎えるまで存続した。

 家康を翻弄し続けた昌幸の執念が、家を存続させたといえるだろう。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動を行うほか、歴史的な視点を応用し、経済から文化まで現代のさまざまな社会状況にも言及。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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