【豊臣兄弟!】家康には秀吉以上にやっかいな相手がいた…徳川を二度苦しめた武将 関ヶ原では秀忠の大軍を足止め
一筋縄でいかなかった秀吉と家康だが
羽柴秀吉(池松壮亮)は徳川家康の重臣である石川数正(迫田孝也)を大坂城(大阪市中央区)に呼び、「頼み」を伝えた。それは次のような内容だった。「真田と和睦してもらいたい。(中略)真田がわれらを頼ってきたからには、守ってやらねばならぬ。この関白秀吉の許しなく、これ以上(註・真田と)戦することはまかりならぬ」。
【写真】お尻もあらわに…「べらぼう」で“何も着てない”衝撃シーンを演じた「元宝塚トップスター」&「セクシー女優」 ほか
だが、浜松城(静岡県浜松市)に戻った数正は、ほかの家臣たちの前で家康に秀吉の「頼み」を伝え、総スカンを食らう。「いまさら真田と和睦などできぬ」「秀吉と戦い抜くだけだ」と反発する声ばかりで、居場所がなくなった数正は、ついに家康を捨てて秀吉のもとへ出奔した。『豊臣兄弟!』の第39回「茶々の本心」(10月11日放送)。
第40回「あさひの輿入れ」(10月18日放送)では、秀吉はいったん家康を成敗する決心をした。だが、大地震が発生して出陣どころではなくなり、秀吉は家康と和睦をめざすことにして、妹の「あさひ」(倉沢杏菜)を家康に輿入れさせた。それでも、家康はなかなか大坂に上ろうとはしなかったが、「あさひ」が嫁いで5カ月後の天正14年(1586)10月、秀吉の生母「なか」(坂井真紀)を人質に迎えるという交換条件を得て、大坂へと向かうことになった。
実際、『豊臣兄弟!』で描写されたように、家康は秀吉に簡単には屈せず、秀吉も家康に妥協しなかったので、家康が秀吉と和睦し、ついには臣従するまでに、かなりの紆余曲折があった。家康からみれば、羽柴秀吉とは徳川を苦しめる憎き敵だったと思われる。
だが、家康にとってある意味、秀吉以上にやっかいで、長きにわたって苦しめられた相手がいた。『豊臣兄弟!』でも、秀吉が「和睦してもらいたい」と頼み、家康の家臣たちが「いまさら和睦などできぬ」と反発するなど、やっかいな相手であることが仄めかされた真田昌幸である。
沼田領へのこだわりが火種になった
『豊臣兄弟!』で家康や家臣たちが、「真田」という名に異常なほど反応した背景には、その直前に徳川が真田を攻撃して大敗した、という苦い経験があった。天正13年(1585)8月、家康は真田攻めを決意し、鳥居元忠や大久保忠世、平岩親吉らを真田昌幸の本拠地である上田城(長野県上田市)に向かわせたが、城から撃って出た真田勢に大敗してしまったのである(第一次上田合戦)。
徳川を大敗させるほどの真田昌幸とは、いったいなに者なのか。以下にその経歴を簡単にたどっていきたい。
信濃(長野県)の在地領主で、甲斐(山梨県)の武田氏の家臣だった真田幸綱の三男に生まれた昌幸は、長兄と次兄が戦死したため真田家を継いだ。その後、上野への進出に積極的だった兄の信綱の路線を継承し、天正8年(1580)には上野の沼田城(群馬県沼田市)を攻略。その後の昌幸は、自分で切り取ったこの沼田にこだわり続け、家康とのあいだでも秀吉とのあいだでも、この「沼田」が火種としてくすぶり続けた。
天正10年(1582)、武田氏を滅ぼした織田信長が、上野を滝川一益にあたえたため、昌幸はいったん沼田領を手放した。だが、本能寺の変が起きると、旧武田領をめぐって徳川、北条、上杉が争い、滝川一益は北条氏に敗れて上野から撤退した。このとき昌幸は、まず北条について沼田領を回復すると、すぐに手のひらを返して徳川についた。
こうして自分がくみする相手を頻繁に替え、周囲を翻弄するのが昌幸流だが、家康はそこを読めていなかったのが甘かった。
昌幸が徳川についた直後に「事件」が起きる。天正10年(1582)10月末、家康は北条と和睦し、北条の勢力下にあった甲斐の都留郡、信濃の佐久郡と、徳川の支配下にある真田の沼田領、吾妻領が交換されることになった。交渉は昌幸の頭越しにまとまったのだが、沼田領と吾妻領にこだわる昌幸は、二つの領土は自分が切り取ったものだと強く主張し、いくら家康が説得しても、ほかの領土との交換に応じなかった。業を煮やした北条が沼田城を攻撃しても、ひたすら耐え抜いた。
[1/2ページ]


