フルトヴェングラーはなぜ「世界一の名指揮者」になれたのか――「スター性のない若者」がカリスマに成り上がった秘訣
クラシック音楽史において、その名が燦然と輝く名指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886~1954年)。しかし、若い頃は周囲に「スター性がない」と思われていたという。それにもかかわらず、なぜフルトヴェングラーは唯一無二のカリスマ指揮者になれたのか。
音楽学の第一人者である岡田暁生(あけお)さんは、新刊『指揮者の歴史』(新潮選書)の中で、フルトヴェングラーが神格化された理由を考察している。同書から一部を再編集して紹介しよう。
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トスカニーニに対抗できるほぼ唯一の人材
第一次世界大戦が終わった1920年代。世界で最も有名な指揮者がトスカニーニだったとすれば、ドイツにおいて彼に対抗できるほぼ唯一の人材と見なされていたのがフルトヴェングラーであった。
「ほぼ唯一」とは誇張ではない。指揮界においてもドイツが受けた戦争のダメージは著しかった。音楽評論家のベッカーは、ドイツ系指揮者の人材払底を嘆いて、マーラー、シュトラウス、モットル、ニキシュ、ワインガルトナーにかろうじて比べられる人材はフルトヴェングラーだけだと書いた。
ドイツ系でトスカニーニに対抗できるのがフルトヴェングラーだけだったということは、バイロイト音楽祭の指揮者選択を見てもわかる。大戦中の10年の中断をはさんで1924年に再開された同音楽祭は、『名歌手』を指揮したブッシュおよびベテランのムックを除いては、名前を聞いたこともないような人物ばかりが指揮をしていた。ありていに言えばワーグナー家となんらかのコネのある指揮者ばかりだったのである。
著名なワーグナー研究者だったエゴン・フォスが言うように、バイロイトは後進世代の育成を怠った。かくして起死回生を狙うバイロイトが1930年に招聘したのがトスカニーニである。彼は『タンホイザー』と『トリスタン』を指揮した。あのバイロイトすら「外人スター」を呼ばざるをえなかった。
そして翌1931年に初めて招かれて『トリスタン』を指揮したのがフルトヴェングラーであり、かくしてこの年は『タンホイザー』と『パルシファル』を指揮したトスカニーニとの両横綱そろい踏みとなった。
フルトヴェングラーはなぜ神格化されたか
いったいいかなる存在としてフルトヴェングラーは、トスカニーニに対抗できる唯一のドイツ系指揮者と見なされるにいたったか? ヘルベルト・ハフナーは、ベルリン・フィルの歴史を扱った著作の「フルトヴェングラーはなぜ神格化されたか」と題された節において、ナチス時代を念頭に置きつつ、次のように書く。
「[ベルリン・フィルとなるとなぜフルトヴェングラーに話題が集中するかといえば]彼が最も著名な人物であるというだけでなく、彼自身が、ドイツ音楽はもとよりドイツ文化全般のご意見番であると自任していたからだ。彼は演奏会をつねに共同体の体験とみていて、指揮者とオーケストラと聴衆の分かちがたい一体感と、作品を敬う共同作業であるとみなしていた。それゆえに彼は、総統国家の中で、別の意味の『総統』[フューラーには指導者の意味もある]となったのだ。共同体、賛美、神格化といった欲求をヒトラーに捧げたくない人々は、貶められ、風前の灯火のようになっている文化の代表として、フルトヴェングラーを崇拝の対象とした。フルトヴェングラーを神格化する人々にとっては、彼は一種のヒトラーの身代わりだった」。
フルトヴェングラーは「真にドイツ的なもの」の唯一の守護者として、神格化されたのである。
ただし指揮の歴史におけるフルトヴェングラーの位置を考えるときに重要なのは、彼は切れ目なく継承されてきた伝統の体現者ではなく、むしろ伝統が切断されたところに登場した伝統の守護者だったという点であろう。
つまり彼は戦後世代だったのだ。第一次世界大戦によって19世紀文化が切れたところから、彼は出発した。フルトヴェングラーの指揮デビューは1906年だし、ウィーンには1913年に初登場している。これはウィーン交響楽団の労働者コンサートで、このときは天才少年だったジョージ・セルがベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番の独奏をした。
しかし1922年にベルリン・フィルにおけるニキシュの後任に指名されたとき、彼はわずか36歳だった。しかも彼はまだ決してメジャーな存在ではなかった。本命視されていたのはむしろワルターとかクレンペラーとかブッシュであった。
無名でスター性もなかった
第一次世界大戦が終わったとき、フルトヴェングラーはまだ無名だった。──これは大変に重要な点である。1919年にフランクフルトで初めてフルトヴェングラーを聴いたときのことを、アドルノは次のように回想している。
「私自身のフルトヴェングラーについての最初の思い出は、私の青春時代の最も初期のそれである。当時私はまだ16歳だった。作曲の師だったベルンハルト・ゼクレス[ヒンデミットの師としても有名]が、『どんなことがあっても今晩のトリスタンを聴くべきだ』と私に言った。マンハイムから来たヴィルヘルム・フルトヴェングラーという若いカペルマイスターが指揮するのだが、こんなものは前代未聞だと言うのである。私はただただ圧倒されてしまった。さらに付け加えて言っていいと思うが、当時のフルトヴェングラーはまったく有名ではなかった。彼の指揮の魂を奪うような力は、音楽の最も微細な動機の分枝にまで浸透していて、死んだ音というものがまったく存在しなかった。このことがバトン・テクニックについての関心を完全に忘れさせてしまった。いわゆる『指揮のヴィルトゥオーソ』とか『器用な指揮者』などからは、フルトヴェングラーは程遠かった。にもかかわらず彼が最大の外面的成功を収めた、つまりあのようなスターになったのは、奇妙なことであった。このことは、彼の時代の音楽文化、少なくとも受け手の側の音楽文化にとって、決して悪い兆候ではなかった」。
アドルノのもって回った表現からもわかるように、「圧倒的な才能に間違いないが、しかしスター性がないフルトヴェングラーが、よくも大スターのニキシュの後釜になれたものだ」というのが、多くの人々の本音だったのではあるまいか。
「ハンサムだから」だけではない
フルトヴェングラーをニキシュの後継者にしたのは、ヴォルフ音楽事務所の女王と呼ばれていたルイーゼ・ヴォルフである。どういう理由でルイーゼが彼を後継にしたか知る由もない。若いころは大変にハンサムだったフルトヴェングラーを、女王がお気に召したのかもしれない。フルトヴェングラーが売り込みをかけたからだとも言われる。
しかし「フルトヴェングラー」という選択を当時の時代背景とともに後世から眺めたとき、それは個人の好みでもなければ権謀術策のたまものでもなく、時代精神が命じた必然にほかならなかったと私には見える。
フルトヴェングラーがベルリン・フィルのシェフになった1922年が、ドイツにとっていったいどんな年であったか。それは極右が台頭し、街頭暴力が絶えず、外相ラーテナウが暗殺され、そしてあのハイパーインフレが発生した年だった。翌1923年にはヒトラーがミュンヘンで武装蜂起する。ドイツは混乱の極みにあった。偉大なドイツ芸術は瓦解の危機に瀕していた。「まだ名前をあまり知られていないフルトヴェングラー」という選択は、「瓦解の危機に瀕していたドイツ文化を救える唯一の人材」という可能性に賭けたものだったのではないだろうか。
単なる指揮者ではなかった
フルトヴェングラーは単なる音楽家=棒振りではなかった。父は著名な古典考古学者であり、妹は哲学者マックス・シェーラーの2番目の妻であり、少年期の家庭教師は高名なベートーヴェン学者のワルター・リーツラーと同じく高名な古典考古学者のルートヴィッヒ・クルティウスであった。彼はまさにゲーテとベートーヴェンを生み出した19世紀ドイツの教養市民文化のど真ん中で育った。
あくまで一般論であるが、指揮者(音楽家)には「教養」などにあまり興味を示さない職人気質の人もいる。大事なのは「ちゃんと振ること」であって、ゲーテやシラーやヘーゲルを読まずとも、ベートーヴェンを「ちゃんと」振れればそれでいいというわけである。トスカニーニはまさにこういう職人気質の人だったと思われる。
それに対してフルトヴェングラーは、その気になれば哲学者にでも文芸批評家にでも美術史家にでもなれたような人物であった。彼にとってのベートーヴェンは、単なる大作曲家などではなく、カントやゲーテと並ぶドイツ文化の体現者であった。
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※この記事は、岡田暁生『指揮者の歴史』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。










