「時間どおりに時間に遅れる」――イタリア人がルーズそうに見えて、意外にトラブルが少ない理由

国際

  • ブックマーク

 日本人は何事にも厳格で、イタリア人はルーズ……もちろん日本人にもルーズな人もいれば、イタリア人にも厳格な人がいるので、これはあくまで印象論に過ぎない。とはいえ、一般的にこのようなイメージを自他ともに抱いている傾向はあるだろう。

 しかし、イタリア人は一見ルーズそうに見えても、モノづくりの分野でも、サッカーなどスポーツの分野でも、また芸術の分野でも、じつに細部まで突き詰めた精巧きわまるクオリティーを発揮している。

 音楽学の第一人者である岡田暁生(あけお)さんも、一見ルーズに見えるイタリア人の劇場オーケストラの高い技術力に脱帽しているという。岡田さんの新刊『指揮者の歴史』(新潮選書)から、一部を再編集して紹介しよう。

 ***

イタリアのオーケストラに関する誤解

 今でもイタリアにはコンサート・オーケストラは多くない。大半のオーケストラは劇場のそれである。そして一般にイタリアのオーケストラといえば「いい加減」、「ジンタみたいにブンチャブンチャとやるだけ」、「性能が悪い」といったイメージがあることは否定できない。

 しかしこれはとんでもない誤解であり、複雑な超大曲を完璧な切れ味で弾きこなすことは出来ずとも、歌手の呼吸に寄り添うことにかけて、彼らはベルリン・フィルなど逆立ちしても真似できない技をもっている。スカラ座だけではない。ナポリのサン・カルロ劇場やヴェネチアのフェニーチェ劇場のオーケストラも天下一品である。

「時間を捏ねる手わざ」

 例えばマリア・カラスが歌う『ノルマ』のトリエステでのライブ録音(1953年)から2幕フィナーレ「ついに貴方はわたしの手の中に(In mia man alfin tu sei)」を聴いてみる。ノルマが不実な恋人を捕らえさせ、「私のもとに戻るなら許してあげよう」と彼を威嚇するところだ。

 相手を焦らすように、相手の様子をうかがうように、カラスは凄みある低音でテンポを引きずりながら歌う。こんな声で恫喝された男はすくみ上るであろう。そして彼女の歌に対してオーケストラは、自在にテンポを調整しつつ寄り添っていく。実に見事な呼吸の読み方である。

 だがテンポを引きずるばかりでは音楽がだれて、いつの間にかテンポが遅くなってしまう。これはやってはいけない。もちろんオーケストラは熟知していて、テンポのリセットのタイミングをうかがっている。

 そして彼女の元恋人であるポリオーネ(テノール)が入ってくるところで、テンポの帳尻を合わせるように早足になる。こうやってバランスをとりながら、「トータルではあまり揺れていない」ようにする。ドイツ系オーケストラの杓子定規のテンポ墨守とは対照的な、「時間を捏ねる手わざ」ともいうべきものが、ここにはある。

 この録音の指揮者はアントニーノ・ヴォットーというイタリアの劇場一筋でやっていた職人型の名オペラ指揮者だ(リッカルド・ムーティの師の一人でもある)。ただし上に描写したようなテンポの揺れが、「ヴォットーの指揮によるもの」と考えるのは間違っているだろう。伝統を踏まえ、その場の気配を読みつつ、かなりの部分をオーケストラに任せ、自分は黒子に徹しているという印象を私は持つ。かつての二重司令システムとはこのようなものだったのではないだろうか。

「時間どおりに時間に遅れる」

「時間を守る/守らない」について、ワイン・ジャーナリストの宮嶋勲氏がとても興味深い洞察を披露している。氏によれば、時間にルーズといわれるイタリア人であるが、実は彼らには遅れについてかなり正確な暗黙の約束事がある。「時間どおりに時間に遅れる」という逆説である。

「7時に会おう」は「だいたい7時半ごろに集まればいい」であって、万事この調子でどんどんスケジュールは遅れていく。だがスケジュールの遅れは予め織り込み済みなので、意外にトラブルになることはない。しかしいざにっちもさっちもいかなくなると、彼らは猛然と仕事を始め帳尻はきちんと合わせるというのである。マリア・カラスの歌に見事に帳尻を合わせながらついていくイタリアの楽士たちは、まさにこれと同じことをやっている。

「帳尻合わせ」の感覚は前近代の時間意識の残滓であろう。共同体的な阿吽の呼吸がまだ残っている社会だからこそ、これは通用する。ズレについて全員の阿吽の合意が共有されているからだ。

「機械」と「呼吸」のあいだ

 しかし万事を時計が管理する社会では「たわみある時間」は許されない。とりわけ時間管理される被支配的な立場の人々にとって、遅れにはしばしば厳しい代償が伴う。チャップリンの『モダン・タイムス』よろしく工場労働者が「時を忘れる」と、あっという間にクビになるだろう。場合によっては不測の大事故をもたらすかもしれない。しかしだからといって、「たわみ」や「ため」を完全排除した時間管理一本槍では、人間アンサンブルをロボットに代行させてもかまわないということにもなる。

 ロボット・アンサンブルの正確さとたわみの人間性をどう両立させるか? この難問をめぐって大指揮者セルジュ・チェリビダッケが示唆的なことを言っている。指揮講習会の際の会話の一部の録音のようで、トスカニーニと並び称されるイタリアの大指揮者だったヴィクトール・デ・サバタについての発言である。

 サバタはスカラ座におけるトスカニーニの後継者であり、しかし戦前にベルリン・フィルにもしばしば客演していたから、チェリビダッケは修業時代にサバタを何度も聴いたのであろう。彼についてチェリビダッケは次のように言う。「オーケストラとは何か? それはモーターだ。しかも個々人という歯車が違った速度で動くモーターなんだ。サバタはこの秘密を熟知していた唯一の指揮者だった」。

 オーケストラという巨大機械をいかにたわませ、ためを作り、呼吸させるか。──つまるところ近代における指揮の歴史とは、この「機械と呼吸」という両極を揺れながら発展していくことになる。

 ***

関連記事〈「指揮者なんて要らない」そう思っていた音楽少年を一変させた「超有名な指揮者」の魔法〉では、岡田暁生さんが高校1年の時に体験した「指揮者は絶対に要る」と思うようになる決定的な出来事を紹介している。

※この記事は、岡田暁生『指揮者の歴史』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

岡田暁生(おかだ・あけお)
1960年、京都市生まれ。音楽学者。大阪大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。京都大学名誉教授、同志社大学客員教授。『オペラの運命』でサントリー学芸賞、『ピアニストになりたい!』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、『音楽の聴き方』で吉田秀和賞、『音楽の危機』で小林秀雄賞受賞。著書に『オペラの終焉』、『西洋音楽史』、『モーツァルトのオペラ 「愛」の発見』など多数。片山杜秀との共著に『ごまかさないクラシック音楽』。