幕末の俳人「加藤素毛」が太平洋“決死の航海”で持ち帰った「31星」の星条旗
奥深い国旗の世界を紹介し、理解を深めることを目的に、「週刊新潮」で150回にわたり続いた人気連載「『已己巳己(いこみき)』だけど実は…知られざる国旗の世界」。「デイリー新潮」に舞台を移してお届けする第二回は、俳人・加藤素(そ)毛(もう)と国旗との知られざる関わりについて記す。
【vol.2】
【吹浦忠正/NPO法人世界の国旗・国歌研究協会共同代表】
***
【写真を見る】いまのアメリカ国旗とは違う! 加藤素毛が持ち帰った「31星」の星条旗
記念館を訪問
端午(たんご)かと思ふや町の旛(はた)じるし
8月末、福井県や富山県で豪雨の被害が続く中、南隣の岐阜県下呂市の金山(かなやま)町に加藤素毛記念館「霊芝庵」を訪ねた。名古屋からJRの特急ひだ号で緑いっぱいの木曽山脈の中を1時間半、飛騨金山駅に着いた。駅に、ここが飛騨と美濃(みの)の国境(くにざかい)であるとの表示があった。高木敏則館長がご親切に駅で迎えてくれた。
「何としてでも外国を見たい」
金山は素毛の生誕地。幕末から明治にかけての俳人として、知る人ぞ知る存在であった素毛は、日米修好通商条約批准書の交換と、ジェームズ・ブキャナン米大統領に国書を奉呈するための万延元年(1860)遣米使節団77人の内の一人でもある。但し、序列は下から5番目、「賄方(まかないかた)」となっている。
素毛は飛騨の名主(なぬし)の次男として生まれ、23歳の時に飛騨郡代の小野高福(たかよし)の公用人となり、同人から国学や漢学などを学んだとされる。嘉永5(1852)年に公用人を辞し、関西、九州へ吟行の旅に向かい、長崎に約3カ月滞在。春徳寺の鉄翁祖門から南画を学ぶなどし、その経験が「なんとしても外国を見たい」となり、安政6(1859)年、江戸に移り、幕府御用達(ごようたし)伊勢屋の手代となった。
遣米使節団の一行に加わるにあたっては、素毛が小野高福の実子、山岡鉄太郎(鉄舟)と面識があったことや、伊勢屋の口利きが役に立ったようだ。素毛の何としてでも外国を見たいという強い意志が見えてくる。渡航にあたっては、実際に、調理に加わり、茶菓の提供という役割を担った。ただ、ニューヨークで写した、短冊と筆を持つという写真には、素毛のアイデンティティが込められているように見える。
[1/3ページ]



