なぜ「地方の武士は優秀」で「江戸・大坂の武士は無能」だった? 人気歴史家が語る「能力格差」の理由
江戸の武士といえば、「無礼者!」と怒鳴って刀を抜いて、平民たちを切り捨てる――そんな荒々しいイメージがあるのではないだろうか。しかし、実際の武士たちは、現代風に言えば「役所勤めの公務員」のような存在だった。ひと言で武士と言っても、会津のように侍としての威風が守られてきた藩がある一方、町人文化にすっかり染まって堕落した旗本もいた。
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『逝きし世の面影』などのベストセラーで知られる人気歴史家・渡辺京二氏(1930~2022)は、生前に地元熊本で行った講演で「戊辰戦争」と「大塩平八郎の乱」の二つの戦役を取り上げて、二つの異なる武士の性格を浮き彫りにしている。その講演録をもとに編集された新刊『私の幕末維新史』から、一部を再編集して紹介する。
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官僚化した武士
ところで武士というと、大声を張り上げて威張り散らしたり、「無礼者」と叫んですぐ刀を抜くように映画で描かれるのがふつうですが、実際はそうではありませんでした。徳川時代では、江戸初期の殺伐とした戦国の世の気風もすっかり消えて、武士は品が良くなったというか、すっかり官僚化してしまったのです。
会津藩出身で陸軍大将までなった柴 五郎は、戊辰戦争で会津若松城が落城したときは十歳の少年でした。この人物が回想録の中で、「大声を上げたり酒を飲んで刀を抜いたりする者は決して武士ではない。それは浪人のなれの果てかやくざに類するもので武士一般を語るものではない」――つまり、それを武士道とか武勇と思われては困ると言っています。
■旗本は踊りや三味線に夢中
ただし同じ侍でも、地方の武士と、幕府直参(じきさん)の旗本たちは分けて話さないといけません。柴 五郎が育った会津は日本で一番藩法が厳格で、藩士は道徳的でなければならない空気がありました。
他方、武士の気風もいろいろあり、江戸の旗本は町人文化に骨抜きにされて、幕末に近づくにつれ、すっかり惰弱になりました。武士として駄目になった分、遊芸が上手になったのです。
踊り、三味線、長唄、あるいは多少高級な俳諧などに夢中になり、武士本来の修練が疎かになりました。
御茶の水に孔子を祀り、儒学を教える学問所でもあった湯島聖堂が残っています。それで、近くにある橋を「聖橋(ひじりばし)」というのですが、この学問所は全国の秀才が集まる場所でした。
「林家」と書いて「はやしけ」と呼ばず、「りんけ」と呼ぶ一門が大学頭(だいがくのかみ)でしたが、そこの成績優秀者はみんな地方出身者でした。旗本の子弟は根性がなくて、勉強も武芸もパッとしなかったのです。
■大塩平八郎の乱
旗本衆がいかに駄目だったかは天保8(1837)年に大坂で大塩平八郎の乱が起きたときに露呈しました。森鴎外も小説に書いていますが、商品経済が活発になる一方、大坂では凶作によって米価が高騰して下層民の生活が厳しくなり貧富の差が拡大しました。民衆の不満が高まり、百姓一揆が頻発する中、立ち上がったのが大塩平八郎です。
陽明学者であり、号して中斎。大坂には町奉行所が二つあり、その片方の与力だった彼は、民衆の苦しみを目の当たりにし、正義感から反乱を起こします。今でいう、裁判所のちょっとお偉いさんが庶民の困窮を座視できないと兵を挙げたのです。
■幕府の鎮圧部隊トップが落馬
結局のところ、チャチな暴動だったのであっけなく鎮圧されてしまいますが、出動した武士たちの軟弱ぶりから、当時のお侍がいかに実戦から離れていたかがわかります。
西町奉行の堀伊賀守が陣笠をかぶり馬に乗って出陣したのはいいのですが、率いていた配下の者たちが大塩勢めがけて鉄砲をバンバンバンとうつと、馬がびっくりして跳ねて、堀は落馬するという武士として不名誉なことをしでかしてしまいます。
馬術の訓練はしていたと思うのですが、トップがこれですから他は推して知るべしで、当時の幕臣は戦争しきらん(できない)侍になっていました。
■会津落城血涙の悲話
もっともこれは幕臣の話で、地方のお侍はどうかというと、たとえば、会津は見事な士風が保たれていました。肥後侍も自分たちには士風があると威張っていたのですが、会津には敵わなかったでしょう。
鳥羽・伏見の戦いにおける敗北で会津藩は朝敵となり、新政府軍との激しい戦いを余儀なくされます。会津藩の武士たちは、江戸侍とは異なり、士気は高く徹底抗戦の構えを見せました。会津藩は新政府軍に憎まれていました。
殿様自ら謹慎して謝罪したにもかかわらず、見せしめのために征伐されました。これは明治維新史に残る血涙の悲話で「明治維新は無血革命であった」という人もいますが、現実は違っていました。
悲惨だった会津落城を象徴する出来事のひとつに白虎隊の悲劇があります。16歳、17歳の少年たちで編制された白虎隊は飯盛山(いいもりやま)で自決を遂げます。
このとき10歳だった柴 五郎に話を戻すと、会津藩は徹底抗戦の構えで、お父さんお兄さんは皆、城に籠もっています。
五郎少年の運命
柴 五郎には、七つ年上の柴四朗というお兄さんがいて、のちに「東海散士(とうかいさんし)」というペンネームで『佳人之奇遇(かじんのきぐう)』という有名な政治小説を著します。
「洛陽の紙価を高からしめた」このベストセラーをのちに書くことになるこの人は、官軍との最終決戦の日、熱病を患い家で臥していたのですが、お母さんに「みんな籠城しているのよ。お前も武士でしょ」と叩き起こされ、体がふらついているのに羽織を着させられ、刀を差すように促されて家から追い出されます。
一方、五郎少年は、「お前、親戚の人から栗ときのこ拾いに来ないかと案内されたから、行っておいで」と何気ない顔で言われたのです。一日遊びに出かけて帰ってきたら、祖母、母親と女姉妹たち五人は全部自決してしまっていた。
「自分たちも城に籠もる覚悟があるが、足手まといになるかもしれないし、少ない兵糧を減らしてしまう。男たち、心おきなく戦ってくれ」というわけです。
会津にはあった武士道の遺風
要するに、会津では、武士の家はなにか戦があれば一家して滅びるのが「武家の習い」という戦国時代からの心得が生き残っていたのです。
柴家の場合も、親戚が逃げるように勧めても、女たちは城下にとどまって運命を共にしました。
現代の目から見ると評価は分かれるのかもしれませんが、江戸侍にはなくなっていた武士道が地方には強烈に残っていた。薩長ら田舎侍が倒幕を成さしめたのもその精神力の違いなのです。
※本記事は、渡辺京二著『私の幕末維新史』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。










