江戸時代は「封建制」ではなかった! 人気歴史家が語った「明治日本がスムーズに近代化できた理由」

国内 社会

  • ブックマーク

 学校で「江戸時代は封建制だった」と教わった人は多いだろう。しかし、人気歴史家の渡辺京二氏(1930~2022)は、そもそも江戸時代の日本は、中世ヨーロッパの封建制とは大きく異なる統治構造だったと論じている。

 渡辺氏によれば、江戸時代には「殿様から領地を任された武士が、自立的な支配者として土地を治める」という、典型的な封建制の統治形態は見られず、そのことが明治時代に日本がスムーズに近代化できた理由の一端だという。

 いったい、どういうことでなのか。この度、新たに発見された渡辺氏の講演録を元にした新刊『私の幕末維新史』から、一部を再編集して紹介する。

 ***

変質する封建社会

 幕藩体制における武士はそれ以前の侍と全く異なったところがあります。それは武家が土地から切り離された点です。

 封建制では大名が家臣たちに「封」を与え、見返りとして家臣は主君に忠誠を尽くす義務が生じます。ところがこの「封」を与えるという行為は、のちにお米を与える形になりました。最初は土地を給付していましたが、しばらくすると、蔵米の支給に変わっていったのです。

 封建制度は、大きく給地制と蔵米制に分けられるのですが、給地制とは、文字通り土地をやること、蔵米制は土地を実際には給付せず、藩の米蔵から石高に応じて米を支給することです。

 実のところ、この二つには本質的な違いはなく、実情は変わりないのです。名目的に「お前の土地は何村のどこからどこまでだぞ」とするのが給地制。土地をもらうお侍つまり小領主が、村に行って自分で年貢を徴収するわけではありません。結局のところ、藩の蔵から米をもらいます。

■土地から切り離された武士

 ですから、名目的に土地が宛(あて)がわれているだけで、ひとつの村の土地全部が単一の武士の私領地になっている例は稀で、村の中に複数の封土が錯綜していたのです。「この田んぼは何左衛門、この田んぼは何右衛門」という具合で、土地領主の観念はさほど育ちませんでした。

 給地制と蔵米制の違いが強調され、江戸時代を通じて、給地制から次第に蔵米制に移っていったと言われがちですが、給地制のケースにおいてさえそれが実情なので、蔵米制とは本質的な違いはなかったのです。
 
 大事なのは、武士が土地から切り離されていたことです。確かに、「ここはお前の土地だぞ」と形の上では給地を宛がわれていたことになっていたので、大身(たいしん)のお侍の場合、そこの領民が季節ごとに野菜や卵を持ってきたりすることはありました。そのような土地領主としての遺制は残っていましたが、それはあくまで「遺制」、つまり「遺った制度」でした。

額面の石高の半分が実際の収入

 薩摩藩は多少異なるのですが、徳川幕府の旗本、御家人、諸藩の武士の場合、蔵米制なり給地制なりで何石という、簡単にいうと、サラリーをもらいます。

 たとえば、二百石取りの侍がいるとして、お米がまるまる二百石入ってくるわけではありません。年貢の割合に応じて自分の収入になります。藩や時代によって違いますが、4割が一般的です。

 百石取りなら実際には四十石のお米をもらうのですが、それはたいがい玄米。さらに、藩によっては籾(もみ)付きの米をくれるところがあって、これだと籾殻の重さも含めてなので、実際の量は半分になってしまう。

 さらに、藩の財政が苦しくなってくると、殿様は家臣からしょっちゅう借り上げをします。藩の財政が苦しいので、5年に限って借り上げをすると決まると、百石取りなら四十石もらうはずが、藩は渡す前にそのうちの十石を貸してくれというわけです。

 これが頻繁に行われて藩主による給米が名目通りになされていませんでした。これは江戸後期になるほど酷くなっていきます。

■太平の世にやることがない

 江戸時代になって、武士は皆、城下に居住するようになりました。これは考えようによっては興味深いことです。要するに、戦時体制を平和な時代にも続けていました。

 戦国時代、各地で群雄割拠していた武将たちが各々徳川幕府の大名になった際、いっぱい抱えていた兵衆は解散せず、そのまま殿様の周りに居座り、百姓から米を取り上げるという体制を作りあげたのです。したがって、平時の家臣団には、本当のところ、何もすることがありません。ただ禄米をもらうだけなのです。

■王に負けなかった欧州貴族の力

 中世ヨーロッパと比較して、徳川封建制の特筆すべき点は中央集権が強いことです。ヨーロッパでは、何とか公や何とか伯が地方ごとに城館を構えて平民を支配していましたが、自分の家臣団はあまり持っていません。せいぜい数十人ぐらいです。そのような領主があちこちにたくさんいるのが、ヨーロッパの封建制です。

 そして、その上に王様がいます。王様は自分の領地を持っていますが、国土は割拠性が強く、貴族は王様の言うことを聞かない。ところが、日本の場合、徳川幕府は強大な権力を持っていて、諸大名を統制し、大名も自分が束ねていた家臣団からいつでも土地を取り上げることができました。

 昔の武士は、親父が死んで息子が何石という世禄を継ぐとき、殿様がいちいち認可してくれます。代替わりがあれば必ずお墨付きが下り、先代と同じ禄米を得る権利の相続を認めたのです。親父が取っていた五百石をそのまま息子が相続できず、三百石に減らされるという事態もままありましたが、そんなことはヨーロッパの封建制では滅多にないことでした。

藩は巨大な官僚組織

 このように、日本の大名の封建領主としての権力は強く、領地内で中央集権的な制度を敷いていますから、実のところ、彼らは本来の封建君主というより絶対主義に傾斜した支配者でした。

 ヨーロッパの封建制なら、城館を構えた貴族に領地の経営をまかせ、おのおの良いようにやらせておけばいいのですが、日本は違っていて、たとえば、細川藩ならその領内にはひとつの法律を敷き、統一的な行政をしなければいけませんでした。そのため官僚団が必要だったのです。

 そこで、城下町に住んでいる武士たちが役人になりました。これは、藩が膨大な官僚を抱えることを意味し、規模でいえば、今の熊本県庁の職員は、他の施設にいる人も合わせるともう少し多いかもしれませんが、仮に4千人とすると、細川藩の場合、官僚たる武士が2、3万はいたのではないでしょうか。

 そんなこともひとつの理由となり、明治維新を経て、近代日本は比較的円滑に近代的な行政制度へと移行し得たと言えるのかもしれません。

※本記事は、渡辺京二著『私の幕末維新史』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

藩は巨大な官僚組織

 このように、日本の大名の封建領主としての権力は強く、領地内で中央集権的な制度を敷いていますから、実のところ、彼らは本来の封建君主というより絶対主義に傾斜した支配者でした。

 ヨーロッパの封建制なら、城館を構えた貴族に領地の経営をまかせ、おのおの良いようにやらせておけばいいのですが、日本は違っていて、たとえば、細川藩ならその領内にはひとつの法律を敷き、統一的な行政をしなければいけませんでした。そのため官僚団が必要だったのです。

 そこで、城下町に住んでいる武士たちが役人になりました。これは、藩が膨大な官僚を抱えることを意味し、規模でいえば、今の熊本県庁の職員は、他の施設にいる人も合わせるともう少し多いかもしれませんが、仮に4千人とすると、細川藩の場合、官僚たる武士が2~3万はいたのではないでしょうか。

 そんなこともひとつの理由となり、明治維新を経て、近代日本は比較的円滑に近代的な行政制度へと移行し得たといえるのかもしれません。

※本記事は、渡辺京二著『私の幕末維新史』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

渡辺京二(わたなべ・きょうじ)
1930年京都生まれ。大連一中、旧制第五高等学校文科を経て、法政大学社会学部卒業。日本近代史家。主な著書に『北一輝』(毎日出版文化賞)、『逝きし世の面影』(和辻哲郎文化賞)、『日本近世の起源』、『江戸という幻景』、『黒船前夜』(大佛次郎賞)、『未踏の野を過ぎて』、『もうひとつのこの世』、『万象の訪れ』、『幻影の明治』、『無名の人生』、『日本詩歌思出草』、『バテレンの世紀』(読売文学賞)、『小さきものの近代』他。2022年没。

デイリー新潮編集部

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。