高市首相が所信表明演説で引用した吉田松陰 その危な過ぎる「狂の思想」とは?

国内 社会

  • ブックマーク

 高市早苗首相は所信表明演説で、幕末の思想家・吉田松陰の漢詩を引用した。「事を論ずるには、当に己れの地、己れの身より見を起こすべし、乃ち着実と為す」というもので、「天下国家のことを論じるには、当然自分が暮らしている場所と、自分の立場から考え始めるべきである。それが着実な進め方である」(松陰神社[山口県萩市]の公式ホームページより)という意味だ。

 幕末に長州藩で生まれた吉田松陰は、「黒船への密航未遂」などで2度投獄されるも、出獄後、伝説の松下村塾で高杉晋作、久坂玄瑞ら若者たちを教育し、最後は「安政の大獄」に連座して29歳の若さで処刑された。

 はたして、吉田松陰はどのような思想を持っていたのだろうか? 文明史家の渡辺京二氏(1930~2022)は、新発見された講演録を元に編集された新刊『私の幕末維新史』の中で、「吉田松陰の面白さは馬鹿げていて愚直なところ」と評価している。同書から一部を再編集して紹介しよう。

 ***

 尊王攘夷運動はエスカレートし過ぎるところもありました。しかし、核心部分は評価すべきでしょう。その点を、吉田松陰を取り上げて話します。なぜなら、尊王攘夷主義者の中で最も優れた典型である彼を通じて、その本質を理解する手がかりを得られるからです。

 吉田松陰は天保元(1930)年、長州藩の城下萩の近くで生まれました。生家の杉家は貧しく、後に養子として吉田家を継ぎました。吉田家は山鹿素行(やまがそこう)の流れをくむ軍学の師範を務めていましたが、山鹿流といえば、「忠臣蔵の陣太鼓」でも知られる軍学の一派です。

長州切っての秀才で旅好き

 松陰は幼い頃から頭脳明晰、藩主毛利敬親に講義を行うほどの秀才でした。順調にいけば出世したでしょうが、一方でこの人はものすごく旅をした人です。幕末で一番旅した人ではないかと言われるぐらいです。江戸時代後半になるにつれ日本人はしきりに旅をし始めますが、この人はいつも歩いている人なのです。

 とにかく東北から九州まで友達と一緒によく歩きました。中でも熊本藩の宮部鼎蔵(みやべていぞう)と仲良しで、というのも、肥後に何遍も来て横井小楠にも教えを受けるほど、松陰は肥後人とよく交流していたのです。

友人との約束のため脱藩

 嘉永4(1851)年、見聞を広めるため宮部と東北地方を旅行する約束をしたのですが、藩の手形がなかなか下りませんでした。とうとう約束の期日が来てしまったのですが、そこでしょうがないからと脱藩してしまうのです。後で処罰されることを知ったうえで、友人との約束の方を重しとしたわけです。

「自分は長州を代表している。長州人が嘘つくとなったら藩の恥である」というのが脱藩の理由ですが、これは吉田松陰が狂気を発した一回目です。

「二十一回猛士」

 この人は「狂」の人なのです。松陰は後に自分のことを「二十一回猛士」と号しました。なぜかというと、後の話になりますが、松陰は二度獄に入れられます。最初に獄中にあった安政元(1854)年に夢の中で神様が出てきたのです。そして、紙に「二十一回猛士」と書いて見せました。

 彼の謎解きによると、神様が示してみせたのは「お前は一生涯のうちに21回勇猛心を奮い起こさなければいけない」という意味で、実際、彼は死ぬまでに3回勇猛心を奮い起こしました。

 第1回は先ほど述べた脱藩のとき。第2回は1度目のペリー来航に際して藩侯に意見を上書したとき。第3回は2度目のペリー来航時に小船で近づき密航を企てたときです。とすれば、あと18回残っているとも言えますが、いずれにせよ、この人は絶えず勇猛心を奮い起こして前へ前へと進んでいこうとした人でした。

 吉田松陰は「狂気」を帯びた人物だと申し上げましたが、それはただ異常というのではなく、独特の情熱と信念を持って行動するという意味の「狂」なのです。実際、彼は偉業という点においてはたいしたことはやっていません。

洋学を学び、囚人に教える

 まず江戸で佐久間象山に学びました。象山は洋学者であり洋式兵術を教えていた人物で、松陰は彼から海外の知識や考え方を吸収しました。これが契機となり、松陰は米艦に乗り込むという行動に出ました。しかし、失敗して長州藩に引き戻されて1年2ヶ月監獄にぶち込まれることになります。

 入牢中なにをやったかといえば、「人間は本来、性は善であり罪人もその罪を悔いているはずだ」と、彼は囚人たちの教育に取り組みました。説いて人として立ち直らせようというのです。

 しかも、自分だけが偉そうに教えるというのではなくて、それぞれの得意分野、たとえば俳句が得意な者には俳句を、絵が上手な者には絵を描かせ、自身は講義を行い、みんなで学び合う環境を作り出したのです。萩にあった野山獄では、真っ昼間に朗々と勉強の声が轟くようになって、彼の囚人教育はとても効果をあげたといいます。

情が極まると理になる

 松陰はあまりにも直情径行で、慎重な判断を求める藩の指導者や同志たちとの間で意見が対立しました。長州藩に引き戻されて野山獄に収監された後、出獄してから「松下村塾」を開きましたが、塾があった期間は3年で、教え子も多くありません。

 しかも、「松下村塾」だけでは心が落ち着かず、安政の大獄で、井伊の命を受け京都で志士を弾圧していた間部詮勝(まなべあきかつ)老中を要撃(襲撃)しようとします。ただ、その案は藩の指導層に受け入れられず、弟子の賛同も得られず計画は頓挫するどころか露呈して、最終的に捕らえられ江戸に送られて処刑されました。

 数え三十で亡くなったので大きな業績があったわけではありませんが、それでも彼が世間に影響を与えたのは、松下村塾を3年やったことと、誰もついてこないなら自分一人で死んでみせようとしたところです。

 天下国家の動きに参加したくなり、同志や藩主に計画を受け入れられず、それでも自分の志を貫くために「俺は死にたい、死にたい」と思うのです。こういうところが彼の「狂」なのです。

 しかも、彼がヒューマニストであるのは、「情」と「理」を分けて考えない点にあります。「情が極まると理になる」つまり、人間の感情が純粋化されると、本当に心から思うことが究極的には理にかなってくるというのです。

※本記事は、渡辺京二著『私の幕末維新史』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

渡辺京二(わたなべ・きょうじ)
1930年京都生まれ。大連一中、旧制第五高等学校文科を経て、法政大学社会学部卒業。日本近代史家。主な著書に『北一輝』(毎日出版文化賞)、『逝きし世の面影』(和辻哲郎文化賞)、『日本近世の起源』、『江戸という幻景』、『黒船前夜』(大佛次郎賞)、『未踏の野を過ぎて』、『もうひとつのこの世』、『万象の訪れ』、『幻影の明治』、『無名の人生』、『日本詩歌思出草』、『バテレンの世紀』(読売文学賞)、『小さきものの近代』他。2022年没。

デイリー新潮編集部

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。