「脅せば、屈服する」アジア勢を見下していた英軍を返り討ちにした「薩英戦争」の真相
19世紀に起こったヨーロッパとアジアの戦争は、前者が後者を徹底的に打ち負かす一方的なものであることがほとんどであった。そのような中で、アジア側が一矢を報いた、あるいは互角の戦いをしたと評価される数少ない事例が「薩英戦争」である。
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生麦事件の余波から火ぶたが切られた薩英戦争は、圧倒的な軍事力を誇る英国に対し、薩摩藩が互角に渡り合った異色の戦役であった。そして、砲火が交わる中で相互への敬意が芽生え、のちに深い協力関係へと転じ、幕末日本の進路を大きく変えていくことになる。
2022年に亡くなった思想史家・渡辺京二氏は、新発見の講演録を元に編集された新刊『私の幕末維新史』の中で、薩英戦争の経緯について語っている。以下、同書から一部を再編集して紹介する。
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英人の100分の1だった日本人の命
長州の都落ちと同じ文久3(1863)年、薩摩にも重大な事態が起こります。前年の生麦事件でリチャードソンが叩き斬られたことから、イギリス政府は幕府へ激しい抗議を申し入れました。償金10万ポンド(当時のレートで約40万ドル)を要求し、以前にも触れましたが、幕府はこれを支払います。
横浜の居留地で日本の法律を破り、幕府の役人に重傷を負わせた外国人には1000ポンド程度の罰金しか科されなかった一方、日本側は10万ポンドの支払いを強いられるのは、日本人の命が英人の100分の1の価値しかないことを意味していました。
賠償金は幕府から支払われましたが、事件の当事者である薩摩は謝罪する気はなく「犯人を差し出せ」という要求にも「どこに行ったかわからない」と誠意ある回答をしませんでした。木で鼻をくくった対応に激怒したイギリスは艦隊を派遣します。
7月2日、薩英戦争は始まりました。記録によれば、7隻の軍艦が鹿児島湾に侵入し戦闘が始まりました。ところが、薩摩ってところは戦争がやたらに強くて、2日間互角の戦いを繰り広げました。英国相手にいい勝負をしているのです。
甲板に積まれた賠償金
英艦隊の旗艦ユーリアラスは砲台からの砲撃を受け、艦長を含む複数の戦死者を出しました。初日の両軍の犠牲者を見ると、薩摩側の死者は9名、負傷者も9名。一方イギリス側は死者13名、負傷者50名と、イギリス側が大きな損害をうけました。
イギリスは「7隻の軍艦を派遣して脅せば、震え上がって屈服するはずだ」と薩摩の力を舐(な)めていました。まさか次々と大砲を撃ってくると思わなかったわけです。
さらに本気で戦うつもりがなく、なおかつ油断し切っていたのがわかるのは、幕府から受け取った10万ポンドの償金を箱に詰めて甲板の上に積んでいたことです。弾薬庫前に置いていたので、その扉がなかなか開かず、応戦するまでに2時間も手間取りました。
薩英の砲弾の違い
薩摩隼人の奮戦でイギリス艦隊は戦死者も出たため、いったん撤退を余儀なくされました。この時点ではイギリスは自分たちが負けたと思ったようです。
通常、要塞と軍艦が戦えば要塞が勝つのが戦史の教訓です。ただし薩摩の大砲は旧式で丸い弾、飛距離は8町(約870メートル)ほど。一方、イギリスは弾丸型の砲弾を装填するアームストロング砲を用いていました。不発のまま地中に埋まったものを後に掘り出して、細長い砲弾を初めて見た薩摩の人々は「生き物のごたる」とその形状に驚きました。
また、薩摩が使っていた大砲は先込めで、発射後に砲口を掃除してから次弾を装填する必要があり、1発撃つのに7~8分かかりました。日本の幼稚な大砲は発射の反動で後退する仕組みであったため、発射のたびに少しずつ後ろに下がっていき、最終的には山際まで押し下がってしまって、旧式兵器しかない薩摩の砲兵は惨めな気分になったそうです。
引き分けから友好関係に
初日の戦闘では薩摩側も「自分たちは負けた」と感じました。後に両者とも「勝った」と言い出すのですが、つまり、相討ちの引き分けが真相のようです。その結果、善戦敢闘したお互いを認め合うようになりました。
薩摩という土地は封建的な古い気風が残る一方、薩摩人は進取の気性に富み、頭の回転も早く新しいもの好きなところもあります。圧倒的な軍事力との衝突を経て「イギリスとは仲良くするべきだ」という教訓を得て、双方は接近します。横浜で頻繁に会合を重ねるようになり、イギリスから軍艦を購入し、留学生を派遣するようになりました。その中には後に文部大臣となる森有礼(ありのり)もいました。
結局、薩摩の富国強兵政策にイギリスが協力する形となったわけです。イギリスは攘夷主義が強かった薩摩の姿勢を改めさせ、開国の必要性を認識させることに成功したのです。薩英戦争は両者が友好関係を築く契機となり、お互いの提携は幕末政治を動かす重要な要因となっていきます。
※本記事は、渡辺京二著『私の幕末維新史』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。










