「あんたはええ女房や。でも立派すぎて僕はしんどい」…“捨てられ筋”を自称した芸人「ミヤコ蝶々さん」 孤独ゆえに芸一筋の凄味
「浪花のおかん」の一生
普段着は着物。やわらかな声で大阪弁を操り、情に厚く涙もろい。しかし時には舌鋒鋭く相手を攻め、中途半端やけじめのない行為を許さない――。そんな大阪の母親像を体現した人物として思い浮かぶのは、上方芸能界の大物芸人・ミヤコ蝶々さん。舞台やドラマ、トーク番組などで大活躍した蝶々さんだが、実は東京出身だった。
東京生まれの女の子が、父と愛人に連れられて神戸へ。数々の苦難と孤独に襲われながらも芸を磨き、観客に笑いと涙、人情の温かさを届け続けた。そんな蝶々さんがこの世を去ったのは2000年10月12日のこと。「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」で、唯一無二の存在だった「浪花のおかん」の生涯を振り返る。
(「週刊新潮」2000年10月26日掲載「墓碑銘」を再編集しました。文中の肩書き等は掲載当時のものです)
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本人は“捨てられ筋”とこぼし
おもろうて、やがて哀し――。ミヤコ蝶々さんの好きな言葉のひとつだったという。
「浪花の演劇界に欠かせない存在でした。芸は明るいが、どこか孤独さを感じさせる。孤独ゆえに芸一筋にならざるをえない凄味がありましたね」(演芸作家・加納健男氏)
1920(大正9)年、東京・日本橋小伝馬町の生まれ。父は家具商を営み、芸事には目がなかったという。4歳の蝶々さんを連れて、父は芸者と神戸に駆け落ち。おまけに芸事好きが高じて、娘を座長に旅回りの一座を作ってしまう。蝶々さん7歳の時である。
蝶々さん自身も、16歳で駆け落ち騒ぎを起こす辺りは親譲りの愛嬌かもしれない。だが、本人が“捨てられ筋”とこぼすように、連れ合いや家族には哀しい別れが生涯付きまとった。
蝶々さんに芸を仕込み、育ててくれた義母は若くして病に倒れ、医療費を稼ぐため一座は大陸巡業へ。だが死に目に逢うことは叶わなかった。1942(昭和17)年、吉本興業に誘われ、大阪の檜舞台を踏む。ドサ回りあがりの芸人が手厚く売り出されたことを妬まれ、苛めにあう。
男弟子を連れて飛び出したら
そんな時、かばってくれた大看板のひとりが三遊亭柳枝だった。
17歳も年上。蝶々さんは正妻に怒鳴り込まれ、心中も覚悟したほど入れあげたが、結婚後も柳枝の女癖の悪さは治らない。女弟子との関係を知り、ついに堪忍袋の緒が切れる。切符もひとりでは買えない蝶々さんは、枕代わりにと男弟子の南都雄二を連れ、飛び出した。
旅館で夫の迎えを待ったが、夜が更けても現れない。翌日、夫が現れた時には、2人は結ばれた後だった。2人目の夫、南都雄二との生活はこうして始まった。
だが仕事もなくなり、前夫への未練もあって、覚醒剤のヒロポンに溺れていった。発作が起きると舌を噛まないように、時には夫が口に手を突っ込んだ。手が血まみれになることも度々だったという。
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