「あんたはええ女房や。でも立派すぎて僕はしんどい」…“捨てられ筋”を自称した芸人「ミヤコ蝶々さん」 孤独ゆえに芸一筋の凄味
立派すぎて僕はしんどい
1948(昭和23)年、夫婦で漫才コンビを組み始めてから、徐々に生活は持ち直した。1954(昭和29)年、ラジオ番組「漫才学校」で人気を得る。さらに翌年、夫婦をゲストに馴れ初めや苦労話を聞き出す「夫婦善哉」が始まった。テレビに引き継がれ、20年も続くヒット番組となった。
「頭が柔らかく、相手への切り返しや間の取り方が絶妙。話芸はピカイチでした」(加納氏)
人気は絶頂を迎えたが、またも夫の浮気に泣かされる。今度は子供まで出来ていた。
「あんたはええ女房や。でも立派すぎて僕はしんどい」
こう言い残し、雄二は蝶々さんのもとを去っていった。
「惚れっぽく、情が深い。それを相手は鬱陶しいと思ってしまう。尽くせば尽くすほど、遠のいていってしまうんです」(作家・藤本義一氏)
芯は強いが、甘えるのが下手
1958(昭和33)年に離婚後も、「夫婦善哉」では変わらず雄二と司会を続けた。1973(昭和48)年、雄二は48歳の若さで死去。同年に、自伝『女ひとり』(初版1966年)を舞台化した時には、すでに書き上がった台本に、雄二の死と葬式の場面を自ら書き加えた。
「色気を失うことはありませんでした。食事に誘い、男が迫るのを待つ。御馳走にだけなって帰ると“お前は色気がない”といわれるんです。60歳を過ぎてもこんな調子で真剣でしたよ」(テレビプロデューサー・澤田隆治氏)
雄二と別れた後にも、妻子ある10歳下のテレビ局員と交際、捨てられたことを自著の中でも明らかにしている。
「芯は強いのですが、甘えるのが下手なのでは。芸人として成功し幸せでしたが、夫や子供に恵まれる夢も持っていたかもしれません」(加納氏)(※編集部注:死去後、蝶々さんの父の養子である日向利一さんが実の息子とわかった)
小さい時から流れ続けた運命
脚本、演出、主演をひとりでこなす舞台を、1974(昭和49)年来、毎年続け、映画でも活躍した。
1996(平成8)年頃から、持病の腎臓病のため入退院を繰り返していたが、1999(平成11)年1月には、一時、呼吸が停止し、危険な状態にも陥った。しかし同年10月には「中座」のサヨナラ公演にも奇跡的に復帰した。
「入院中もテレビのニュースや週刊誌を欠かさず、時事問題に興味を持ち続けていました」(義弟・岩佐輝圀氏)
2000(平成12)年10月12日、容体が急変。慢性腎不全のため80歳で亡くなった。
「ようやりましたね。女ひとりで、小さい時から流れ続けた運命だったんでしょう」(親しい作家・石濱恒夫氏)




