「吉岡秀隆さんも2~3日滞在してくださって…」倉本聰さん妻が語る“肺がん闘病”と終活

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 2008年に放送されたドラマ「風のガーデン」は、余命わずかな医師が尊厳ある死を迎えるまでを描いた傑作である。その脚本をつづった倉本聰氏(享年91)はいかなる最期だったのか。

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「ぼくは」/【先生】は自分のことをそういった。/「人にものを教えられるような人間ではありません」(略)「ぼくから盗んでください」――第156回芥川賞受賞作『しんせかい』(新潮社刊)で【先生】が登場する場面である。本作は、19歳の主人公スミトが北海道の演劇塾で自給自足の共同生活を送る物語。著者の山下澄人氏(60)は、倉本氏が1984年に俳優や脚本家を養成するために創設した「富良野塾」の2期生。つまり【先生】は倉本氏がモデルになっている。

 今は作家、演出家として活動する山下氏にとって倉本氏は師匠を超えた存在だ。

「親に近いですね。芥川賞を受賞した時、僕、たぶん一番最初に電話しましたし、あの人、誰よりも喜んでくれたし」

“倉本さんがお線香を上げに来た”

 92年、北米公演のさなかに、山下氏の母親が逝去した。その折のことである。

「末期がんやったし、そうなるかもなと思いながら行ったんで。それを誰に言ってもしょうがないし、黙ってたんですね。すると、帰国後しばらくして神戸の実家にいる妹から“倉本さんがお線香を上げに来た”って。どっかで母の死を知ったんでしょうね。でも倉本さんは“行ってきたよ”とも言わなかった。意地悪も言うけど、性根は本当にやさしい人やから」

 山下氏は倉本氏に劇団を辞めさせられたというのだが、その後も“親”との交流は続いた。最後に会ったのは1~2年前。富良野で倉本氏の公演を見たという。

「あんまり面白くなかったと遠回しに言ったら、倉本さんは憤慨。でも、“今お前が俺に言ったことを、みんなにも言ってくれ”っつったんですよ」

 実際に、舞台上に集められた出演者全員を前に話をさせられた。それは倉本氏流のフェアネスの体現だった、と山下氏は振り返る。

「あの人と出会わなかったら、僕はこういうことをやっていないわけですから、ほんまにありがとうございました、しかないっすよ」

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