膵臓がん患者は“余命もの”映画を観て何を感じるのか…難病をテーマにした邦画に通底する「命に関わることを軽々しく言葉にすべきではない」という価値観
“変わる”ことがマイナスを意味するわけではない
この映画が興味深いのは、病気を周囲に開示することによって、人間関係が一様に悪くなったり、逆に結びつきが強くなったりするわけではないという点だ。離れていく人もいれば、これまで以上に深く関わってくれる人もいる。そして、病気にならなければ見えなかった関係が見えてくることもある。
感動作品ではなく、真逆のコメディーに分類される作品だが、私は明るくポジティブな気持ちになれた。
ざっくりした話で恐縮だが、日本の「余命もの」では“言えない”、あるいは“言わない”ことで思いが純化していく物語が多いように感じる。「余命10年」だけでなく、黒澤明監督の「生きる」でも、主人公は一番伝えたかった子どもたちが聞く耳をもたず、それが公園づくりのエネルギーに昇華されていく。
この背景には、近しい人に背負わせてしまいたくないという思いやりや、悲しい思いをさせたくないという親愛の情だけでなく、命に関わることを軽々しく言葉にすべきではないという文化、あるいは価値観があるように思う。
こうした日本的な人間関係への慮りは、重い病気を患った人であれば、多かれ少なかれ抱くものだと思う。私が友人に話そうか話すまいか迷ったのも同じ理由だ。
しかし、私にとって重要だったのは、病気を開示すれば確かに人間関係は変わるが、“変わる”ことがマイナスを意味するわけではない、ということだ。変化した結果、以前よりも強くなる関係もある。病気になったからこそ、新しく生まれる関係さえありえる。
最終的に私は、何らかの予定があって実際に会う友人には、まず自分の病気について話すことにした。相手を悲しませないことよりも、そこから生まれる新しい関係のほうに賭けてみようと思った。
友人と分かち合いたいと思った
二年前の自分を振り返ってみると、正直なところ、ここまで理屈立てて考えていたわけではない。
ただ、私は自分が置かれた状況に対して、少なからず好奇心を抱いていた。これから自分はどうなるのか。どんなことが起こるのか。もちろん悲しいことや苦しいことはあるだろう。しかし、それだけではない何かも起こるのではないか。そんな感覚がどこかにあった。
そして、それを友人たちとも分かち合いたいと思った。
考えてみれば、ずいぶん勝手な話である。病気を告げられる友人の側からすれば、たまったものではないかもしれない。それでも、病気になったからといって友人たちとの関係を閉じてしまうより、その後に起きることも含めて一緒に過ごしたほうがよいのではないかと思った。
そのほうが、最期のときが来たときに「いろいろあったけれど、楽しかった」と思える確率が、少しは上がるのではないか。
そのときの私は、そう考えていた。
※記事中で引用した文献・資料の出典は以下の通りです。
「余命10年」(原作 小坂流加/監督 藤井道人/脚本 岡田惠和・渡邉真子/ワーナー・ブラザース映画/2022年)
「50/50 フィフティ・フィフティ」(監督 ジョナサン・レヴィン/脚本 ウィル・ライザー/アメリカ/2011年)
[3/3ページ]

