膵臓がん患者は“余命もの”映画を観て何を感じるのか…難病をテーマにした邦画に通底する「命に関わることを軽々しく言葉にすべきではない」という価値観

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若者に強い印象を残している作品

 実は、がんになる前、私は「余命もの」はほとんど見ていなかった。宣伝文句の中に涙や感動が謳われ、あらかじめ約束された感情を確認するための作品だと感じられた。それ自体に異を唱えるものではないが、他に見たい映画や読みたい本がある中で優先順位は低かった。だが、当事者となった以上、話が違ってくる。

 もちろん、当事者になることなど望んでいたわけではない。しかし、望んでも得られないような体験を、私はいま実際にしている。では、当事者となった自分は「余命」をめぐる物語をどのように感じるのだろうか。大学で映画について触れることも多いので、この経験を少しでも何かプラスの方向に転じることができないか、などと前向きなことを考えていた。

 前向きになれたのはまだ病気の影響が体に表れていなかったからだ。がん宣告を受けてから二週間ほどで、治療も始まっておらず、当然、副作用もない。腹部に多少の痛みを感じる以外は日常生活に大きな支障はなく、感覚としてはほとんど健康体だった。

 ならば、多少重たい物語を見たり読んだりしても、それほど大きなダメージにはならないだろうと思っていた。

 そのとき見た作品の一つが「余命10年」だ。

「余命10年」は小坂流加さんによる小説を原作とし、2022年に映画化(監督・藤井道人、主演・小松菜奈、坂口健太郎)された。原作の主人公は漫画家志望だったが、映画では小説家を志す20代の女性とされた。原作者の小坂さん自身も難病を患っており、小坂さんの人生により寄り添う形での映画化となった。

 大学の講義で、学生たちに「これまで見た映画の中で最も印象に残った作品は何か」と尋ねてみると、「余命10年」は毎年、必ず上位に入ってくる。それだけ若い世代に強い印象を残している作品でもある。

日米で対照的な展開

 以下、作品の内容に触れるため、いわゆるネタバレを含むことになる。また、作品についての解釈は、あくまで私個人の見解であることをお断りしておく。

「余命10年」は、主人公の高林茉莉が二年間の入院生活を終え、退院するところから始まる。退院祝いをしてくれる大学時代の同級生たちは、すでに社会人として歩み始めている。彼女たちは茉莉が突然の病気で入院したことは知っている。しかし、その病気が治る見込みのほとんどないものであり、余命が十年程度とされていることまでは知らない。

 そんな折、高校時代の同窓会の知らせが届く。高校時代の同級生は病気についてはなにも知らない。病気について気にすることなく同世代と交流できる機会を求めて参加した同窓会で、後に特別な存在となる真部和人と再会する。

 物語は、茉莉と和人が次第に惹かれ合っていく過程を、季節の移ろいとともに丁寧に描いていく。しかし茉莉は、自分が病気であるということすらなかなか話せない。そして、自分の余命に限界があるということは、もうこれ以上は隠せないというギリギリまで隠し通す。

 対照的なのが、2011年公開のアメリカ映画「50/50 フィフティ・フィフティ」だ。
 
 主人公のアダムは27歳でがんを患い、5年生存率が50パーセントだと告げられる。彼はその診断結果を、恋人や家族、職場の人間に、ほぼ時間差なく率直に話していく。
 
「余命10年」の茉莉が和人に病気であることを告げたのは、映画が始まって1時間が経ったところだが、アダムが恋人に告げるのは診断された日の夜。映画の時間では上映開始からわずか10分後だ。

 当然ながら、がんによって周囲との関係は変化する。病気を気遣うあまり、以前と同じようには接することができなくなる人もいる。恋人との関係も揺らいでいく。

 一方、親友のカイルは違う。彼は以前とほとんど変わらない態度でアダムに接する。がんであることさえ冗談の種にし、「がんへの同情を利用すれば女性を口説ける」といったことまで言いながら、アダムをバーへ連れ出す。アダムはそんなカイルに半ば呆れながらも、付き合っていく。

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