外国人記者の見たニッポン…週刊新潮の“異色”コラム「東京情報」の制作秘話 謎に満ちた筆者「ヤン・デンマン氏」の正体とは

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東京・中野に住んでいた、デンマンさん

 ところで、先ほどから、ヤン・デンマン氏が架空の人物であるとの前提で述べてきたが、実は彼は、実在の人物ともいえるのである。

 そもそも《東京情報》の発案者は、上述の齋藤十一氏だが、若いころから、たいへんなクラシック・レコードのマニアでもあった。戦前はSP盤で聴いていたが、戦後、収録時間の長いLPレコードが登場すると、齋藤氏はLP蒐集に励むようになった。

 齋藤氏の没後に刊行された追悼文集『編集者 齋藤十一』(齋藤美和編、冬花社刊、2006)のなかで、美和夫人が、「音楽のある生活」と題するインタビューで、こう述べている。

〈当時、レコードコレクションの充実ぶりを示す一番の指標は、希少な海外盤をいち早く入手しているかどうかにありました。でも、輸入盤の取り寄せとなると何カ月もかかります。〉

 終戦直後の1945年11月、齋藤氏は、文芸誌「新潮」の編集長に就任していた。LPレコードの新譜は、海外に行く知人に買ってきてもらっていたが、

〈それでも不十分で、齋藤は、占領軍のパイロットで、東京・中野に住んでいたアメリカ人将校と親しくなり、彼の将校としての特権を利用することで「安く早く大量に」レコードを仕入れるルートを確保しました。〉

 その将校の家にレコードを受け取りに行く役目が、1950年に新潮社に入社し、「新潮」に配属された、のちの夫人、美和さんだった。

〈その将校さんの名前は、デンマンさんといいました。
 後に齋藤が立ち上げた「週刊新潮」の名物コラムのひとつ、「東京情報」の匿名筆者の名前「ヤン・デンマン」は、この将校さんから拝借したものだったのです。〉

 デンマンさん宅へのお使いをしているうちに、美和さんは、齋藤氏と結婚することになるのだった。

《東京情報》は、先述のように、途中の一時休載を経て、2018年4月、総計「2112回」目で最終回を迎えた。そのタイトルは〈さらば東京〉。

〈実は1カ月前、S・P・I本社に戻るよう連絡があった。栄転と言えば聞こえはいいが、これで私はジャーナリズムの現場から退くことになる。本連載も今回が最終回だ。(略)モノレールで羽田に向かう途中、あらためて東京の街並みを眺めた。〉

 1960年12月に羽田空港に到着したデンマン氏だったが、2018年に、ふたたび羽田空港から旅立つ――〈かつて東京の玄関は成田空港しかなかったが、今では羽田で多くの国際便が発着している。〉。そして、こう結んでいる。

〈常に変化を続け、最先端を取り入れようとする東京という街は、たしかにエキサイティングで魅力的である。しかし、その一方で変化や変革、改革というものにあまりに楽観的な日本人の心性に不安を覚える西洋人は私も含めて少なくないだろう。(略)/日本人はそろそろ落ち着きを取り戻すべきではないか。/離陸した飛行機の窓から見えたのは、やはり「見えない国ニッポン」だった。〉

※コラム本文の引用は、主旨を変えない範囲で一部表記を改訂しています。

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部

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