外国人記者の見たニッポン…週刊新潮の“異色”コラム「東京情報」の制作秘話 謎に満ちた筆者「ヤン・デンマン氏」の正体とは

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「デンマン氏の脳ミソは複数でできあがっている」

 ところで、そんな“好奇心旺盛”なヤン・デンマン氏だが、いったい、どんな人物なのだろうか。

 後年、多くのメディアで“正体探し”が行われ、「ヤン・デンマンなど実在しない」「ニセ外国人」などと書かれた。あるときなど、具体的なライターの名前までが報じられたこともある。

 だがそんなことは当たり前で、そもそも最初の単行本(1962年12月、大泉書店刊)のあとがきに、週刊新潮編集部名で、こう書かれているのだ。

〈種をあかせば、このデンマン氏の脳ミソは複数の人のそれでできあがっている。そして、連載が二年余にわたっている関係上、この脳ミソの種類は何度も入れかわることになった。こうして、一冊の本になってみると、デンマン氏の性格が時によって変化している所が目につくのは、こうした訳からなのである。〉

 事実上、ヤン・デンマンなる個人など存在しないと、早々に編集部が“宣言”しているのである

 1980年代に《東京情報》の連載を担当したA氏(68歳)が語る。

「《東京情報》は、編集部員や外部評論家など、さまざまな人が書き継いできました。わたしが担当していたころは、1人の外部ライターがまとめ役で、そのほか、3~4人のブレーンがいました。すべて、当時のメディア界では誰もが知る、著名な評論家やジャーナリストです。全員が海外生活の経験のある方々でした」

 そのブレーンたちのコメントが、文中に登場するアメリカ、イギリス、フランスなど外国人記者の会話に発展するのだった。

「金曜日の会議でその週のテーマが決まると、急いで取材し、資料を集めて、ライターとブレーン諸氏に伝えます。日曜夕方までに電話でブレーンからコメントを聴き取り、夜7時ころにライターが社に来たら、取材結果を伝えて記事構成を組み立てます。構成が決まったらその場で執筆に入ってもらい、深夜12時か1時くらいまでに書き上げてもらいます。その後、わたしのほうで原稿を整理し、明け方に印刷所入稿。月曜午後にゲラが出て、校閲や修正を経て校了――これが毎週の流れでした」

 当時は、インターネットもファクスもない時代だ。

「いまのようにパソコンもありませんから、原稿はすべて手書きです。それだけに、途中で文章の入れ替えや、大幅書き直しなどをしていると、時間と手間を喰ってしまいます。そのため、事前の構成組み立てに、とても神経を使いました。ブレーンのなかには、外国人の視点でテーマを語るために、わざわざ知り合いの外国人に取材してくださる方もいました」

 テーマは、毎週、編集部側からも提案するが、大半は、“新潮社の陰の天皇”などと呼ばれた担当重役・齋藤十一氏(1914~2000)から下りてくることが大半だった。

「あるとき、どこだかの金融機関の宣伝広告の文案がいかに下品かを、デンマン氏の視点で語る――とのテーマが下りてきました。ところが、その広告が、どこの金融機関のもので、どこで見たのか、齋藤さんは忘れてしまったというのです。必死で探したのですが、どうにも見つからない。結局、執筆直前に判明したのは、ある金融機関が、横須賀線のグリーン車内だけに掲出していたポスターでした。齋藤さんは鎌倉在住だったので、横須賀線を利用していたのです」

 結局このテーマは、ワイド特集に“移籍”したそうだが、このように特定の企業をターゲットにすることも多かった。

「景気のよい時代でしたから、毎週、大企業からの広告が多く入っていました。ヤン・デンマン氏がそれら大企業について語ると、皮肉で厳しい筆致になると決まっています。そこで当の企業には、その週だけ、広告は下りてもらっていました。批判する企業の広告が平然と載っているというのも変ですから。そのたびに広告部員は苦労していました」

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