「母は他殺を信じて疑わなかった」…国鉄の初代総裁が轢死体となった「下山事件」 息子たちが明かしていた“沈黙を貫いた母の真意”【昭和の未解決事件】
「来るべきものが来たな」
「オヤジは“これからは自動車だ。鉄道の時代じゃない”といってましたが、請われて引き受けざるをえなくなった」
と、長男の定彦さんはいう。当時、国民生活は依然、窮乏のどん底にあり、加えて、国鉄では10万人の首切りが予定され、不穏な空気が漂っていた。
「警察は周囲の情勢をひんぱんに伝えてくるし、オフクロは、“えらいものを引き受けた”と危機感を持ってましたね」
と回想するのは次男の俊次さん。
「だから、事件が起こった時、来るべきものが来たな、という考えが頭のどこかにありました」
ただし、巷間、伝えられた悲愴感などはなかった、と三男の健三さんはいう。
「国鉄への愛着と首切りの板ばさみで悲愴感が漂う、との感じでとらえられすぎてます。オヤジは機関区長など現場経験が長いので、現場の人間を説得する自信をかなり持ってました」
他殺を信じて疑わなかった
事件の報を聞いた時、よしさんは歯を食いしばりながら、じっと黙っていた。
「母はグチをいわない人で、事件についても、いいたいことがたくさんあったろうと思うのですが、以後も全く話さなかった」(四男の博也さん)
定彦さんが後を続ける。
「何か話して息子たちの将来に差しさわりがあったら困ると発言を控えてきたんです。事件については、他殺を信じて疑わなかった。誰が殺したかはわからないにしろ、自殺ではない。オヤジが、自分の引き受けた職務を自ら放棄することはありえないと考えてました。ただ、オフクロは、なぜ事件が他殺とはっきりしないのか残念で仕方がないといってましたね」
事件後の生きがいは子供
「下山事件」以後のよしさんは、残された4人の息子のために生き抜いたといってもよいかもしれない。
総裁の不慮の死で、下山家には「現金もなければ株券もなかった」。唯一の財産だった洗足池(大田区)の自宅も手放し、当時のわずかな退職金と年金、そして、遺族援助基金がその後の苦しい生活を支えた。奨学金やアルバイトで息子4人が大学を卒業し、就職、結婚したのを何よりも喜んでいたという。
とにかく、生きがいは子供で、自分の楽しみといえば、俳句と旅行ぐらい。よしさんの親しい友人は最後にこう語った。
「“自分がくじけたらダメだ、と自分を励ましてがんばってきた”とよくいってました。息子さんのひとりは、就職試験の時に“尊敬する人は”と聞かれて、“母です”と答えたそうです。なかなかいえないことですよ」
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「私がいうのは、自殺、他殺は五分五分だなあ」――第1回【いまも検証が続く「下山事件」、大学同期の元警視総監が語った“ただならぬ挙動”とは】では、事件の前々日に目撃された下山氏の様子などを伝えている。
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