超極秘の戦艦「大和」造船計画で現場の設計を監督…戦後に見た沈没後の船体、生粋の技術屋がショックを受けた“意外な理由”とは

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すべてを把握していたのは牧野氏1人

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「大和の会議には出ていたようです。だからそれがどんなものかは十分承知していた。それで呉に行って実際に造ってこい、ということになった」

 そう語るのは、元海軍技術士官で作家の内藤初穂氏だ。1936(昭和11)年のことで、その海軍呉工廠で基本設計に従い、個々の部分を細かく工事ができるよう設計していったのが、牧野氏だったわけである。

「現場の設計監督ですね。建造計画は極秘中の極秘で、設計図も例えば大和が載せる46センチの大砲をわからなくするため、図面が細かく分けてある。現場で図面を引いている人もそれがどこへいくものかわからなかったらしい」

 と、現在『「戦艦大和」日記』を執筆中の作家・早坂暁氏は語る。すべてを把握していたのは牧野氏1人という。

 やがて「大和」は1941(昭和16)年に完成。牧野氏は艦政本部に戻り、今度は輸送船などの設計を終戦まで続けた。「大和」は1945(昭和20)年4月、沖縄特攻に出撃して徳之島沖で沈没するが、この時の感慨は生涯、口にしなかったという。

大和は「海の中に入れておくもの」

 戦後、牧野氏は海軍の設計技術者たちの再就職先探しに奔走。それが一息つくと、船舶設計協会などの設計者団体を作り、その後は東大講師、三菱重工顧問などに就いた。また防衛庁嘱託として船舶設計の指導と後進の育成にも努めてきた。技術者としての日々を淡々と送ってきたのである。

 大役を果たしながらも「大和」に格別の思いがあったわけではないという。よく「大和も小さな駆逐艦も図面では同じだよ」と語っていて、

「ある時、テレビ局が海底の大和を撮って見せにきた。牧野さんは“意外にショックだね”と言ったんですが、沈んだ姿に感傷的になったのではなく、こんなところがぶっ壊されたって驚いている。懐かしむより何故沈んだかを考えているんですよ」(内藤氏)

 徹頭徹尾、技術者なのである。またある親族もこう語る。

「大和のことは何も言いませんでしたね。ただ一度、大和を引き揚げる計画が出てきた時に、あれは海の中に入れておくもの、と言ったくらい」

欠陥をきちんと指摘する技術屋

 晩年は「日米戦艦比較論」という論文に取り組んだ。

「日本の大和・武蔵と米国の戦艦を比べて、米国に一日の長があったという内容ですが、自分で造った船を戦後、徹底的に分析しておられました。技術屋の中でも非常に冷静な目を持ち、欠陥をきちんと指摘する。そこでも大和を懐かしがったり、美化することはなかった」(内藤氏)

 そしてその論文に続き「日米巡洋艦比較論」に取り掛かろうとした1989(平成元)年、牧野氏は脳梗塞で倒れた。以後右半身が少しばかり不自由となったが、それでも寝込むことなく、8月初めには2泊の旅行にすら出かけている。

 だがその疲れが出たのか、下旬に風邪をひいて、29日に入院。そのままその日の夜、呼吸不全のため帰らぬ人となった。享年94。

デイリー新潮編集部

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