超極秘の戦艦「大和」造船計画で現場の設計を監督…戦後に見た沈没後の船体、生粋の技術屋がショックを受けた“意外な理由”とは

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骨の髄まで“技術屋”

 太平洋戦争末期の1945年4月7日、鹿児島県沖の坊ノ岬沖海戦で沈没し、いまも海底で眠る戦艦「大和」。後にフィクションの世界で「宇宙戦艦」となり、惑星イスカンダルへ向かったことで現在も高い知名度を誇るが、もともとは誰が造ったのか。

 シリーズ「週刊新潮が伝えた戦争」の今回は、極秘中の極秘だった「大和」造船計画において、現場の設計監督を務めた牧野茂氏に注目する。かつて「大和」引き揚げ計画が持ち上がった際、「あれは海の中に入れておくもの」とだけ言った真意とは。骨の髄まで“技術屋”だった牧野氏の生涯を、「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」で振り返る。

(以下、「週刊新潮」1996年9月12号「墓碑銘」を再編集しました)

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世界最大の戦艦の設計主任

 日本海軍が持つ造船技術の粋を集めて建造された戦艦「大和」。この世界最大の戦艦の設計主任を務めたのが牧野茂・元海軍技術大佐だった。

 一高から東京帝大船舶工学科に学び、卒業後も海軍からフランスの国立造船大に留学したというから、まさに当時の日本の「粋」と呼ぶにふさわしい経歴である。だが、意外にも牧野氏は、基本設計から「大和」に関わっていたわけではない。

「大和」の基本設計は1934(昭和9)年に始まる。海軍艦政本部第四部というのが担当部署で、福田啓二・海軍技術中将を責任者(実質は「軍艦の神様」と呼ばれた嘱託の平賀譲・海軍技術中将が中心だった)に、10名弱のグループが基本設計を行った。当時、牧野氏もこの四部に在籍していたが、他の業務に忙殺されていた。

 実は同年3月、設計ミスが原因で水雷艇「友鶴」の転覆事故が起こっていた。そして翌年には演習中に駆逐艦「夕霧」「初雪」の艦首が折れるという「第四艦隊事件」が起きる。軍縮条約の制限下で質的優位を目論む海軍首脳が、軍艦に過重武装を強いていたのが原因だった。牧野氏はこれらの事件の調査と問題のある軍艦の補強や基本設計のやり直しを行っていたのである。

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