作家が右パンチを繰り出し、監督がマイクを凶器にやり返した! 野坂vs.大島「伝説の大ゲンカ」の深い背景を徹底考察
文化人同士の揉め事は珍しくない。毎日、毎時間のようにX上では行われている。しかしかつて、誰もが知る大物作家と大物映画監督が衆人環視の下、“物理的”に揉め、大いに世間を賑わせたことがある。直木賞作家、野坂昭如氏と映画監督、大島渚氏。その衝撃的な喧嘩シーンはいまだに語り継がれている。友人同士だったはずの二人はなぜ衝突したのか。批評家、篠原章氏がこの「揉め事」を考察する(文中敬称略)。
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伝説の殴り合い
1990年10月23日、映画監督の大島渚とその妻で女優の小山明子の結婚30周年パーティーが東京プリンスホテルで開かれ、関係者約1500人が集まった。終宴間際の午後9時、作家の野坂昭如の祝辞の場面で揉め事が起こった。
野坂は、事前に準備した和歌を読み上げながら祝辞を送ったが、大島が礼を言い終えるやいなや、いきなり鋭い右パンチを喰らわせたのである。キックボクシングで鍛えていた野坂のパンチは、シュートボクシング元世界王者・土井広之をして「格闘技生活の中でこれは凄いと思った右ストレート」と言わしめたほどの第一級のパンチとなる。結果、大島のメガネは吹き飛んでしまう。
が、殴られた大島も瞬時に反応して、持っていたマイクで野坂の頭を2発殴り返して応戦した。マイクを通して「ボコボコッ」という衝撃音が会場に響き渡り、「あわや乱闘」というところで小山が止めに入ったが、言祝ぎの席は一気に冷え切ってしまった。
この時、野坂60歳、大島58歳である。
野坂のイライラ
事の発端は、あいさつする予定だった野坂が会場にいなかったので、大島が予定されていた野坂のスピーチを飛ばしたこと。終盤になって「いない」と思っていた野坂の姿を見つけ、大島は壇上に野坂を呼び寄せたが、そのときすでに野坂は泥酔状態。長時間待たされていた野坂のイライラは頂点に達しており、これが殴り合いの直接の原因となった。
多くのメディア関係者が出席していたパーティーだけに目撃証言も多く、翌日のテレビ局ワイドショーやスポーツ紙はこの殴り合いを大きく取り上げた。現場で収録された殴り合いの映像もテレビで繰り返し流された。当時の大島と野坂は、田原総一朗が司会する『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)でたびたび共演して激論を戦わせており、この殴り合いを「遺恨バトル」とまで書きたてるメディアもあった。
翌月には両者とも手紙を送り合って互いに詫び、「手打ち」と相成ったが、昭和一桁生まれを代表する二人の表現者の殴り合いは今も「伝説」として語り継がれている。
なぜこのようなことが起きたのか。一般的には野坂の酒癖が最大の理由のように語られているが、もっと深い理由があったと筆者は見る。二人の人生の類似性と相違点が作用した結果だ、と。以下、それぞれの人生を見てみよう。
野坂昭如の波瀾万丈
無頼の直木賞作家にして奔放なタレントの野坂昭如は1930年、神奈川県に生まれた。実父は東京府官吏で、戦後新潟県副知事を務めた野坂相如(すけゆき)である。実母は昭如を生んで3ヶ月後に他界、昭如は生後6ヶ月で神戸の親戚の養子に出された。
1945年6月5日の神戸大空襲で養父を失い、実家も焼失、一時西宮の親戚宅に身を寄せるが、生後1歳の妹の恵子と一緒に福井に疎開、彼の地で恵子を栄養失調で亡くしている。これが後に直木賞を受賞する小説『火垂るの墓』の元になった原体験である。
1950年4月、「シャンソン歌手を志して」(本人の弁)19歳で早稲田大学第一文学部仏文科に入学。仕送りもあったが、アルバイトに精を出す日々だったという。「果物屋などさまざまな職種のバイトを転々とした」と言うが、闇市やその周辺で「危ない仕事」を渡り歩いたのが実情だ。
その後紆余曲折の末、放送番組の台本やCM用歌詞を書く作家として活躍できるようになる。台本を受け持つレギュラー番組は、最盛期の1959年時点で、ラジオ18本、テレビ6本だった。この時期に、TV番組向けに作った「おもちゃのチャチャチャ」、CM向けに作った「ハウス・バーモントカレーの歌」など、作詞家としても活躍している。
さらに出版界へも活動の場を広げる。1967年にはおそらく彼のもっとも有名な作品であろう『火垂るの墓』を発表。第58回直木賞を受賞している。
受賞後、『火垂るの墓』に反戦的な意図を見いだしたジャーナリズムが、野坂から政治的な発言を引きだすこともたびたびあったが、より目立ったのは、権威権力を茶化したり、嫌悪したりする野坂の振る舞いだった。
野坂一流の「粋狂」や「反骨精神」の表れでもあるが、「アナーキーで挑発的」と感ずる向きもあった。野坂のこうした振る舞いは時に揉め事の火種にもなった。自身が編集した月刊誌『面白半分』に掲載された「四畳半襖の下張」が刑法175条「猥褻文書の販売」だと警視庁に判断され、刑事責任を問われたこともある。
このように名家に生まれながら、一般的なモラルからは逸脱した道を好んで歩んだ野坂に対して、大島の人生は対照的なものだった。
大島渚の軌跡
大島渚は1932年京都生まれ。農林省水産試験場長だった父を6歳のときに亡くし、以後母の実家のある京都で育った。京都大学法学部時代には、京都府学生自治会連合(京都府学連)の委員長に選任されたが、「朝まで生テレビ!」などで見せた激昂しやすい性格はこの頃からだったようで、活動方針をめぐる会議中にブチギレて委員長職を解任されそうになった経験もある。
京大卒業後、松竹に入社したのは1954年。松竹時代の代表作に『青春残酷物語』『太陽の墓場』など。
1961年に退社後は、いったん映画界から距離を置いたこともあるが65年には復帰。以来、話題作を次々世に送り出した。
『日本春歌考』『愛のコリーダ』『愛の亡霊』など性を扱った作品も多いが、もっとも一般的に知られるのは1983年の『戦場のメリークリスマス』だろう。ビートたけし、坂本龍一、デヴィッド・ボウイというキャスティングには世間はあっと驚いた。坂本のテーマソングは今なお広く愛されている名曲だ。
その後も人間とチンパンジーの「恋愛」を描いた『マックス、モン・アムール』、新撰組を“男色”(衆道)という観点から捉え直した話題作『御法度』など話題作を世に問うていった。
遺作となった『御法度』は司馬遼太郎の小説をヒントに新撰組を衆道という切り口から見直した異色の物語だった。デヴィッド・ボウイの坂本龍一への接吻が話題になった「戦メリ」を経て、ヌーヴェルヴァーグの大島がたどり着いた場所は「新撰組の衆道」だったのか、という感慨は禁じえなかった。
野坂と大島の異なる「戦争体験」
野坂と大島の軌跡をこのように俯瞰してみると、特に興味を惹くのは、「性を経て反戦に向かった野坂のキャリア」と「反戦を経てて性に終わった大島のキャリア」という捉え方が可能である。
子どもの頃に戦争を経験した二人は反戦を唱え、戦後民主主義を虚妄であると批判した。その点では同じに見えるが、野坂は実体験にもとづく反戦、大島は観念論にもとづく反戦だということにまず目を向ける必要があるだろう。
もう一つ対照的な点を挙げるとすれば、同じように反戦平和を唱え、性をテーマとしてきたのに、一方は褒章をもらい、他方はそうはならかったという点がある。2000年、大島は紫綬褒章を受章した。反体制を標榜してきた大島がすんなり受賞したことについては違和感を抱いた人も少なからずいたようだ。
一方で野坂は生涯、権力と距離を置き、戦闘ポーズを崩さなかった。田中角栄の金権政治を批判するために同じ選挙区から立候補したこともある。当然、落選したのだが、本人はその結果も織り込み済みだったことだろう。
この違いに「殴り合い」の遠因や背景がある、と筆者は考えている。野人=アウトサイダーの立場を一貫して守り、社会的名誉や名声に対する拘りが薄かった野坂に対して、社会的名誉や名声に対する欲求があった大島、という対照的な構図が背景にあるように思えるのだ。
こうした名誉名声に対する二人の姿勢の違いが何に由来するものなのかという点について言うと、筆者は、二人の「戦争体験」の違いが決定的に重要だと考えている。実のところ、大島には「戦争体験」と呼びうるほどの苛酷な体験はなかった。幼少期・学齢期を、空襲が少なかった京都で過ごしたからだ。
これに対して、野坂には、神戸大空襲と養父の戦災死、妹の餓死という、直接的かつ苛酷な戦争体験があった。野坂のような戦争体験の欠落は大島にとって負い目だったはずだ。この負い目が京大生時代の大島を反戦活動に駆り立て、映画監督として反戦思想をこめた作品を撮る原動力になったと思う。
あの殴り合いの日、大島の想像力は、野坂の凄まじい葛藤にまで及んでおらず、無頼を自認する野坂自身も自分自身の葛藤の凄まじさに気づいていなかった。というか、泥酔の故に葛藤をコントロールする術を失っていた。その結果、祝宴の席で長時間待たされた野坂は瞬時に沸騰し、大島目がけて前代未聞のパンチを喰らわせたのである。
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以上が篠原氏による「野坂vs.大島」の深層である。
なお野坂氏が急逝する数時間前まで書き続けた日記をもとにした作品、『絶筆』には、大島氏の訃報を受けての文章が収録されている。2013年1月某日のものだ。そこではこの騒動を振り返った率直な心境が綴られている。以下、引用してみよう。
1月某日
拙宅の庭、一面雪のまま。
テレビ画面に、ぼくと大島渚さんが映っている。大島さんの訃報を告げるなかでこのシーンがセットになっているようだ。
恥ずかしい、申し訳なかったというより、懐かしい思い。そして少し、おかしい。
不謹慎ながら笑う。
ぼくが大島さんと初めて会ったのは、お互い30歳を過ぎたあたり。大島さん率いる軍団がたむろする新宿の飲み屋である。カウンターの隅に陣取る大島さんは何やら凄みがあった。
すでに映画の世界で名を知られていた。その店に出入りしていたのは、唐十郎をはじめ、血の気の多い連中で、年中喧嘩が絶えない。だが、たとえ隣で喧嘩がはじまろうと、皆平然と飲んでいる。それが店のしきたり。
大島さんとは特に親しく喋り合うことはなかった。偶然隣り合って酒を飲み、それから長いつき合い。ジャンルは違っても、お互い周辺を蹴飛ばしてきた者同士。
今の60代、いや、20代でも30代でもお前らに、なぐり合う相手はいるか。ぼくにはいた。
野坂氏が他界するのはこの2年後である。脳梗塞で倒れながらもいくつもの連載を持ち、作家として書き続けた野坂氏による最後の本が『絶筆』だ。同書ではリハビリを続けながらも野坂氏が現代社会に鳴らした警鐘、自らの複雑な生い立ち、敗戦前後の悲惨な体験なども率直に綴られている。情報・教養サブスク「新潮QUE」では、関連記事【「日本は食いものとエネルギーを他国に任せ、豊かな国と錯覚している」 作家・野坂昭如の残した激烈なメッセージ】が公開中である。






