手術と治療のため米国に招かれた「原爆乙女」25人 昭和の終わりに吐露した心情「人間万事塞翁が馬」「受けたものでないと分からない苦しみ」

  • ブックマーク

原爆乙女たちの昭和

 昭和30年5月、広島で被爆した女性たち「原爆乙女」25人が、ニューヨークのマウント・サイナイ病院で治療と手術を受けるために海を渡った。翌年に帰国し、再び日本での生活へ。治療後の彼女たちはその後、どのような人生を送ったのか。「週刊新潮」は1989年、昭和が終わった時点で彼女たちの戦後35年を振り返った。

(全2回の第1回:以下、「週刊新潮」1989年1月26日号掲載記事を再編集しました。文中の役職、年齢等は掲載当時のものです)

 ***

帰国時は皆まっすぐに上を向いて

 原爆乙女たちの渡米は、米国人ジャーナリスト、ノーマン・カズンズ氏を中心とする「広島少女救護委員会」の招きによるものだった。彼女たちは1945(昭和20)年8月6日の広島への原爆投下によって、ケロイドや手足に不自由が生じた被爆者だった。

 米国ではクエーカー教徒の家に宿泊し、治療、手術を受けるかたわら、タイプ、美容、ファッションなどの勉強にも励んだ。

 25人の原爆乙女たちのうちの1人、中林智子さん(26=渡米当時)は、不幸にも手術中に心臓マヒで死亡。1人は米国滞在中に知り合った米国人青年と結婚、1人はデザインの勉強を続けるために米国に残った。

 従って、1956(昭和31)年に帰国した原爆乙女は22人。出発時には、誰もがネッカチーフや包帯で深く顔を隠していたが、帰国した時には皆まっすぐに上を向き、顔を隠している者は1人もいなかったという。ケロイドが完治したわけではなかったが、手足が自由に動かせるようになるなど、治療、手術は、かなりの効果をあげた。

良縁に恵まれたケースも

 それに文明国アメリカで暮らし、学んだ体験が彼女たちに生きる自信を与えた。戦後10年、顔や手のケロイドを気にして家に閉じこもり勝ちだった彼女たちも、自分の人生に前向きに取り組み始めたのである。地方公務員、美容師、デザイナー、社会事業のケースワーカー等々。そして、良縁に恵まれたケースも少なくなかった。

 原爆乙女の渡米に同行した医学博士の原田東岷氏(76)の話によると、

「彼女たち25人の中で在米中に亡くなった中林さん以外では、3人の方が亡くなりました。そのうちの2人は、帰国後数年のことで、肝臓障害と胃ガンでした。もう1人は、結婚して2女をもうけ、経営していた美容院もうまくいっていたんですが、1981(昭和56)年にご主人と長女を亡くし、そのショックもあってか、肝臓を痛めて1983(昭和58)年に亡くなりました」

 現在(※編集部注=記事掲載時点の1989年1月)、存命者は21人。12人が結婚し、そのうち4人はアメリカ、カナダ在住だが、結婚組12人の中で、2人は離婚しているという。独身を通しているのが9人。存命者21人のうち、今でも広島県に在住しているのが17人。

次ページ:“人間万事塞翁が馬”と考えることに

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。