手術と治療のため米国に招かれた「原爆乙女」25人 昭和の終わりに吐露した心情「人間万事塞翁が馬」「受けたものでないと分からない苦しみ」

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“人間万事塞翁が馬”と考えることに

 結婚し、無事平穏に暮らしている1人が、河村照枝さん(57)である。被爆後、顔のケロイドは鼻の高さと同じくらい厚く、左目は瞬きもできない状態だった。

「被爆してから渡米するまでは、そりゃいろいろ苦しい思いをしました。ちょっと外出するにしても、“被爆者だ”と言われる。ちょうど、13歳から23歳までの娘時代でしょう。同年代の女性たちは映画へ行ったり、ダンスホールに行ったりしているのに、私はそれが出来ない。羨んだりもしました。そんな苦しみを私はずっと持ち続けていました」

 しかし、アメリカでの治療、手術のおかげで、顔のケロイドの傷跡は、ほとんど取り除かれた。そして帰国数年後、自宅の近所に住んでいる水道局に勤める地方公務員と結婚した。

「子供は29歳の娘を頭に2女1男。皆独立して、それぞれ2人ずつ子供がいます。6人の孫たちの一番上も、もう小学校2年生ですよ。苦しみも悲しみも決して消えることはありませんが、辛抱して良かったと思いますね」

 象面道代さん(63)は、独身生活を守り続けた。渡米前から広島洋裁職業訓練所で働いており、帰国後、職場復帰し定年まで勤めた。定年後も同じ職場にパートのような形で残って働いている。父親が1974(昭和49)年に死亡、きょうだいは独立し、彼女は母親と2人暮らし。

「私は、むしろ“人間万事塞翁が馬”と考えることにしています。確かに私は災害にあったけれど、その結果、渡米し素晴らし人との出会いもあった。そう考えています。恨んでばかりいては前進できない。結婚しなかったことも、今では“気楽でいいな”とも思っています」

死ぬまでこの重荷はついて回る

 やはり、独身生活を続けたのが山岡美智子さん(58)。3歳の時に父親を亡くし、母1人娘1人の家庭で育った。帰国後、ずっと洋裁学校の教師をしていたが、1979(昭和54)年に辞職。その年に母親が亡くなった。

 その後は、洋裁学校の退職金や年金で暮らしているが、彼女は地元では、むしろ「歴史の語り部」として知られている。洋裁学校を辞職後、彼女は修学旅行生などを相手に、原爆や戦争の悲惨さについて話して聞かせるというボランティア活動を続けているのである。

「戦後43年間の苦しみは、受けたものでないと分からないでしょう。死ぬまで、この重荷はついて回ります。天皇が亡くなられた時に私がまず思ったのは、“どうしてもっと早く終戦にしてくれなかったのか”ということでした。テレビや新聞では“終戦に努力された”という面だけが強調されていましたが、私はそれに対しては、とても複雑な思いを持っています」

 終戦の日が、もっと早ければ原爆投下は回避されたかも知れないというのが被爆者に共通した思いなのである。いずれにせよ、元号は平成に変わったが、原爆乙女たちにとって、昭和という時代は、決して終わってはいない。

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 彼女たちを米国へ招くため尽力したノーマン・カズンズ氏。第2回【被爆「原爆乙女」25人の渡米治療に尽力…「なぜ」を問われた米国人ジャーナリストの回答「心中の願いに従って最善の努力を」】では、国際政治の舞台でも活躍したカズンズ氏の生涯を伝える。

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