「もし俺が死ぬようなことがあっても、おまえは飛んで来なくていい」 渥美清さん没後30年 家族同然に付き合った盟友だけに見せた素顔とは

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盟友にも見せない姿

 渥美さんが盟友の関さんにも見せなかったのは、結婚後の家庭と自身の癌闘病の姿だ。1969年に結婚した正子さんは17歳年下の才女。正子さんの父と渥美さんが親しかった縁で交際が始まった。関さんは交際中のふたりを車に乗せたことはあったが、仲を詮索などしなかった。結婚後、渥美さんは最も親しい関さんですら、家に招いていない。それを不満に思わず、自宅は役者の世界と別だからなと納得するところが、関さんの良さである。

 5年に及んだ癌闘病のなかで、渥美さんは関さんの糖尿病を気遣う話の流れから、「もし俺が死ぬようなことがあっても、おまえは飛んで来なくていい」「俺が死んだのがわかるのは2~3日経った後だから」などと、死を匂わせる話をそれとなくしている。自分が癌であり思わしくない状態だと伝えるのは、まっすぐな性格の関さんを苦しめてしまうだけだと考えたのだろう。

 最後となってしまった48作目のロケで渥美さんの体調の異変に関さんは気づいていた。

「撮影を見学している大勢の人が、寅さん、と手を振っているのに応じる元気がなかった、と主人は話していました」(恵子さん)

突然の訃報

 かつて渥美さんが匂わしていた通り、悲報は突然のことだった。妻子だけで荼毘に付し、お骨になってから妻子は山田監督ら関係者に連絡をとり始めたが、これは渥美さんが生前から言い伝えていた手順だった。

 妻子にとっては「田所康雄」でも、名優としての「渥美清」、そして誰にもまず浮かぶ姿「寅さんこと、車寅次郎」がいる。訃報に世間は騒然とした。

 松竹大船撮影所で営まれた「お別れする会」で関さんはメモも見ることなく、遺影に語りかけたが泣いてしまい、話はどんどん長くなった。その弔辞のなかでお揃いの位牌についても触れ、記者会見で問われたことから位牌の存在が広く知られることになった。

 四十九日が過ぎ、落ち着いてから関さんは初めて渥美さんの自宅に上がった。そして、あの一緒に作った位牌が祀られているのを目にする。位牌になぜ本名を刻んだのか、亡くなる時は渥美清でも車寅次郎でもなく、田所康雄という人間で旅立つとの思いが込められていたのでは、と関さんは感じるようになる。

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