「もし俺が死ぬようなことがあっても、おまえは飛んで来なくていい」 渥美清さん没後30年 家族同然に付き合った盟友だけに見せた素顔とは

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

親戚同然のつきあい

 関さんは本名を関谷敬二という。妻は関谷恵子さん。関さんがようやくアパート暮らしができるようになった1950年代後半に、同じアパートに住んでいた縁で交際が始まった。関さんより8歳年下の恵子さんは総理府の恩給局で働いており、芸能界に興味はなかった。現在90歳の恵子さんは、声や耳もしっかりしており、記憶も明瞭だ。

「主人を訪ねてきた渥美さんと当たり前のように会って話していたなんて、今思えば、なんとも特別でぜいたくなことですよね。渥美さんはどんどんスターになったのに、主人や私の前で全く変わらなかったのです。家にふらっと来てくれました。私達もこれまで通りにしていました。役者として渥美さんと主人では比べられない ほどの差があるのは、素人の私でもわかりました。でも、主人は大の友達なんだからと全然気にしていませんでした。私達は渥美さんを特別扱いしなかったというより自然なままにしていただけですが、それが渥美さんには心地良かったのかもしれません。私や子供達にも親戚のように接してくれました」

 恵子さんはもちろん、関さんが渥美さんとの親しいつきあいを語るようになったのは、渥美さんの没後である。渥美さんが私生活を大切にしていることを関さんは十分理解し尊重していた。渥美さんのペースに任せながら、浅草での下積み時代同様に、思ったことははっきり伝えていたのだ。

 関さん夫婦が長男の太朗さんを授かった1963年、渥美さんは映画の撮影中で多忙だったが産院に駆けつけ、「俺がおまえの父ちゃんだぞ」などと冗談を言って、夫妻を笑わせている。

「主人が生まれた栃木の足利では、1歳のお祝いに一升餅という大きなお餅を背負わせて歩かせ、幸せを願う風習があります。ちょっと歩けるかなという頃に、大きくて重いお餅を背負って2、3歩でも歩くのです。主人の実家からそのお餅が届いて、長男が実際にお餅を背負って歩く時、渥美さんも家にいました。その時の様子を憶えていてくれたのですね。(1991年に)長男の結婚式の披露宴に出席して下さった渥美さんは、この一升餅を思い出してお祝いの言葉を話してくれました。心がこもっていて温かくて感激しました。そのうえ披露宴に最後までいてくれて、お客様をお見送りする時、主人や私と並んで渥美さんが“本日はありがとうございました”と挨拶をしながら頭を下げているものですから驚きました」(恵子さん)

 1969年開始の映画『男はつらいよ』第1作に、関さんも出演。渥美さんは「寅さん」の役柄と一体化するように国民的スターとして愛されていく。一方、関さんに見せる顔は変わらない。

「長男が小学生の時、ピアノの発表会に渥美さんが主人と現れた。静かに入ってきて端っこで長男の時だけ見ると帰っていきました。びっくりしましたよ。渥美さんはアフリカが好きで帰ってくると、長男と次男にお話をわざわざしてくれるのです。フン転がしという虫がいてな、とその虫が目の前にいるように話して下さり、子供達が夢中になっていたのを思い出します。語りが見事なんでしょうね。主人がスナックを開くと、ふらっと来て下さいました。ロケ先からスタッフの皆さんと一緒に寄って下さった時、主人は店にいなかった。店で過ごした後、渥美さんがお財布を置いて“関やんに渡してここから出しておいてよ”と言って帰った、と聞いてこれまた驚きでした。渥美さんから電話がよくかかってきました。携帯電話のない時代です。主人がいない時もあります。すると“お恵さん、今何していたの”と聞かれて、掃除をしていたなどと答えると、そのまま雑談になりました。渥美さんは話上手で、普段からなんでもない話が面白いのです。主人に伝える用件が特にあるわけでもないのに15分ぐらいすぐに経ってしまいました。家や店に来て下さった時、渥美さんは人の話をよく聞いて、周りをよく見ていたと思います。長男の一升餅にしてもよく観察されて憶えていたんだな、と感じました」(恵子さん)

次ページ:『男はつらいよ』で共演

前へ 1 2 3 4 5 次へ

[2/5ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。