「もし俺が死ぬようなことがあっても、おまえは飛んで来なくていい」 渥美清さん没後30年 家族同然に付き合った盟友だけに見せた素顔とは
『男はつらいよ』で共演
関さんは『男はつらいよ』第1作から間を置いて、1980年の第26作以降、主に寅さんのテキ屋仲間の役で毎回登場した。関さんにしばらく声がかからなかったのは、1作目で張り切りすぎたのかNGを出し過ぎて、山田洋次監督が困ったかららしい。関さんは『男はつらいよ』に復帰したものの、短い出番にもかかわらず台詞を覚えておらず、山田監督に注意された。するとすかさず渥美さんが“監督、それは無理です。こいつは仕事じゃなくて遊びに来ているんです”と言い、場が和んだとか。山田監督も盟友関係の深さに気づいた。「ふたりの友情を驚きと憧れの目で見ていました。関さんがそばにいると渥美さんの気持ちが解放されるのです。話相手になって下さい、と出番が終わった後も同行してもらいました」。山田監督は関さんの逝去時に週刊新潮の「墓碑銘」の取材にそう述懐していた。ほんのわずかな出番しかない関さんは『男はつらいよ』を支える重要な役目を担っていたのだ。
一方、『関敬六劇団』を率いて浅草の軽演劇を守ろうと活躍を続けた関さんを渥美さんは励ましていた。舞台にふらっと現れ、「私、関敬六の付き人で渥美清と申します」と笑わせることもあった。
ロケ先での急な出来事
1983年、シリーズ第32作『口笛を吹く寅次郎』のロケ先から宿舎への帰り道、渥美さんは仏具店の前で車を止めさせた。この作品で寅さんはお世話になった寺の一大事を救うために僧侶のふりをする展開で、袈裟姿のままだった。関さんを連れて仏具店に入ると、ふたりの位牌を作りたいと告げる。要らないと慌てて断る関さんに、「こういうものは験のもので、生きているうちに作っておくと、逆に長生きすると言うぞ」などと説得した。こうして数日後、ふたりの位牌が届いた。
関さんの位牌には「関敬六之霊」と表書きされ、裏には「昭和五十八年十一月二日 岡山県総社市にて 朋友 渥美清と之を作る」と記されていた。一方、渥美さんの位牌には「田所康雄之霊」の表書き、裏には同じく日付と場所が記され、「朋友 関敬六と之を作る」と続いていた。
渥美さんの位牌には本名の田所康雄としっかり刻まれているのに、関さんは芸名のままなのか、当時関さんは気にしなかった。
「お位牌を持って帰ってきた時、主人が特に何か言った憶えはありません。大切にしまっていたと思います。渥美さんが海外に出かけた時などにおみやげをよくいただいていたので、主人はあまり気にせず同じような感じで受け止めていたのではないでしょうか」(恵子さん)
渥美さんは思いつきを即実行に移すことがあり、位牌もそんなところではないかと当初、関さんは気にとめていなかった。ところが後日、位牌をどうしているか渥美さんと話すうち、これまで思った以上に真剣に作ったものだとわかった。渥美さんは自分の位牌を両親の位牌と仏壇に並べて手を合わせていたのだ。
位牌を作った頃、渥美さんの体調は悪くなかった。糖尿病という持病をかかえていたのは関さんの方である。
「ロケ先や旅先で主人が気にせずたくさん食べようとすると渥美さんが、だめだよと手を軽くたたいて止めてくれたそうです。主人が入院した時、渥美さんはお見舞いに来て下さいました。少し話をして帰られたのですが、包みが残されていました。中身は2着のパジャマでした。直接渡すのが照れ臭かったのだと思います」(恵子さん)
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