「ソ連の船」から仮死状態で落とされ…漂流遺体となった「21歳女子大生」 航海士逮捕の“強引な幕引き”で謎残る「バイカル号事件」【昭和の殺人事件】
消えた200米ドル
ビソーコスが去ると、日本人たちは解散し、Aさんは自室に戻った。4人部屋で同室だった女性の話。
「8時5分か10分前に、食事に行こうと私が誘ったんです。4人とも部屋にいて、彼女はベッドで何かゴソゴソしていたので、てっきり着替えてるんだなと思ったんですが、あとで聞くと、それまでと同じ服を着たままだったそうです。で、彼女はどこかをまわるから食事にはちょっと遅れますといって、先に部屋を出たんです」(1976年10月28日号)
一方、バーの入り口に留まっていたBくんのもとに、ビソーコスが戻って来た。次いでAさんも姿を見せた。ビソーコスはAさんだけをバーのゲームに誘ったが、Aさんから誘われる形でBくんも参加。Bくんが2人を残してバーを離れたときが、Aさんが目撃された最後の瞬間である。
Aさんは夕食に現れなかった。遺体となって漂流し、北海道の沖合で発見されたのは8月3日のこと。頭部の8カ所に鈍器で殴られたような傷跡と、右前頭部に頭蓋骨亀裂骨折があった。失神状態のまま海に投げ込まれたようで、直接の死因は水死だった。
彼女のトランクからは約6万円の日本円が見つかったが、200米ドルは消えていた。当時のソ連で米ドルはきわめて貴重。ドルショップで使え、ヤミ両替なら公式レートの数倍になるといわれていた。ソ連当局が研修旅行団の団員たちに事情を聴いた時も、最初に出た質問は「Aさんは米ドルを持っていたか」だったという証言もあった。
帰らないAさんと捜査の壁
29日午前2時頃、帰ってこないAさんを探していたBくんは、バーで西洋人女性と酒を飲むビソーコスを見かけた。「Aさんを知らないか」とたずねると、「あのあとすぐに別れた」と落ち着いた表情で答えたという。
バイカル号がナホトカ港に入港した29日午後、研修旅行団の団長はビソーコスとの面談を頼んだが、同船の船長はこれを拒否。だが、折り返して再び横浜に入港した8月2日、船内にビソーコスの姿はなかった。
船長は横浜海上保安部の係官に乗船を許し、ビソーコスの居室の写真撮影にも応じた。記者会見でも「ビソーコスには十分なアリバイがある」と疑惑を否定したが、8日、ソ連当局が在ナホトカ日本総領事館にビソーコスの拘留を通知。次に横浜に入港する9日には、神奈川県警が任意の船内捜査を行うことになった。
ところが「すべては公海上の事件」とするバイカル号の面々は、さらに高姿勢になっていた。午後2時50分、横浜・水上署の刑事課長が“沖乗り”(桟橋に着く前に乗船すること)しての鑑識活動を申し入れるが、船長は「本国からの訓令がない」と拒絶。桟橋に着いた午後4時、捜査員2名が船内に入ったが、周辺デッキより内部には入れてもらえず、写真撮影も断られた。
船長以下3名の幹部船員が「短時間」という条件で事情聴取に応じたのは午後6時を過ぎてから。たったの10分間で、事件当夜の当直航海士は現れずじまいだった。この日、デッキに顔をのぞかせる一般船員もいたが、「ビソーコスはどうした」と問いかけても、「どこのビソーコスのことだ」とニヤニヤするばかりだったという。
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