都会で成功したバリバリのエリートが、故郷の村に帰っても「真のリーダー」にはなれない「深いワケ」

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 デジタル化やグローバル化が進んでも、地域、会社、業界、学校にはそれぞれの「ムラ」がある。外部から最新の知識を持ち込む人と、ムラの内部にいる人の関係は、昔もいまも変わっていない。

 京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は新刊『日本人の精神I 権威と空気の構造』(新潮選書)で、共同体の中のドメスティックな村人と外部から文明をもたらすエリートとの関係性について考察する。以下、同書から一部を再編集して紹介しよう。

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外に開いた共同体

 日本とは、ある意味で、永続するムラ共同体の社会である。もっとも、ムラ共同体とはいえ、まったく孤立して存続することはできないし、決して閉ざされた集団ではない。共同体はそれなりに世界へ開けているのである。

 それは、閉ざされた閉鎖的共同体ではなく、外部に開いた共同体である。ただ、開かれた外部が、共同体の秩序維持にとって不可欠なのである。しかしまさにそのことが、「文明国の表象」を掲げるエリート支配という「形」を生み出すのである。

 この「形」が共同体に秩序を与える。この「形」を与える「文明を知ったエリート」がなくてはならない。ただそれはあくまで「形」であり、大衆が実際に「支配」されているわけではない。大衆はエリートに追従しつつ反発する。人と人の結びつきがうまくゆき、人々の役割が安定しておれば、人々はエリートに従う。適切な変化もむしろ歓迎される。エリートの持ち込んだ「文明国の表象」、つまり未来への希望はそれなりに有効なのである。

庶民の関心

 しかし、それなりの変化も進歩も歓迎する庶民大衆は、実はそんな「文明国の表象」を信じているわけではないのだ。真に関心があるのは、共同体のなかの己の生活や利益関係や人間の繁がりだけであり、共同体が昨日と同じように明日も続けばよい。その限りで、新奇なものがはいり、徐々に生活水準が上がれば変化も許容できる。

 そして「目に見えぬ神」を裏切らないことこそが真に大事なことであった。「目に見えぬ神」とは、人々がずっと昔から従ってきた慣習であり、信仰であり、先祖であり、彼らを結びつけるような共通の精神の拠り所なのである。

信頼される古老

 そのためには、本当は、文明通のエリートではなく、村の伝統や、その伝統をよく知る「世話焼き」の方がはるかに信頼できるのである。真に信頼されているのは村の古老である。だが同時に、日常の「世話焼き」とは別に「文明通のエリート」を支配の座に置いておくのが便利なのだ。

 そのことをよくわかっているエリートは、どこか屈折した精神の処遇に気を遣うことになる。だから、エリートの内面には、誇りとともに庶民や大衆へのある種のコンプレクスが宿ることとなる。「エリート嫌いなエリート」という奇妙なエリート主義がこうして形成される。

同じ村の支配者

 その行動は、日本における「支配」にも独特のニュアンスを与えることとなった。「世話焼き」はいうまでもないが、かりに都会帰りのバリバリのエリートが村を支配するとしても、それさえも、真の権力的支配とはいいがたい。

 なぜなら、ここには、ある国が他国を侵攻し制圧し隷従させるような圧倒的な暴力や武力がないからだ。これは大事なことで、「都会帰りのエリート」といっても所詮は同じ村民なのである。あくまで同じ仲間の知的エリートなのである。決して異国から来た征服者ではない。もともと村民と同じ村に住むからこそエリートたりうるのである。

 日本の支配層はみずからが無慈悲で残虐な圧倒的権力を持つことはついぞなかった。圧倒的な権力で村民を支配するのは、多くの場合、異民族による征服であるが、日本の政治には外部世界による「征服」や「恐怖政治」というとてつもない悲惨がついぞない。むき出しの「力」への暴力的服従がない。その代わり、日本の支配層は、彼らより上位にある「何ものか」を担ぎ出すことによって自らを権威づけようとするのである。

 ムラ社会とは、過ぎ去った過去の話ではない。外の文明をありがたがりながら、内側では日々の安定を第一にする日本社会、今なお現存する組織のかたちである。

関連記事〈実際に日本社会を動かしている「見えざる原則」とは?〉では、外来の知識をありがたく受け入れながらも、実際にはそれに従っていない日本社会の「建前と本音」の構造が語られている。

※本記事は、佐伯啓思著『日本人の精神I 権威と空気の構造』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

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