アメリカの経済学なんて誰も本気で相手にしていない――実際に日本社会を動かしている「見えざる原則」とは?
戦後日本は、経済学をはじめとする社会科学について、その中心部分をほぼアメリカから直輸入し、それを後生大事に受け入れてきたように見える。
しかし、京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は、新刊『日本人の精神I 権威と空気の構造』(新潮選書)で、実際は誰もアメリカの経済学などに従って動いておらず、むしろ日本人を無意識レベルで規定する「見えざる原則」に従って行動していると論じている。以下、同書から一部を再編集して紹介する。
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日本の「根源的価値」
20世紀初頭のドイツの文明論者シュペングラーは、あらゆる文化には、その文化を特徴づける特有の「根源感情」がある、といった。これは、今日の実証的な科学的学問の精神からみれば、およそ無意味かつ無謀ないい方ということになろう。
しかしまた考えてみれば、この「実証的な科学的学問の精神」も、今日のグローバルな世界文化の「根源感情」ともいえるのではなかろうか。そうだとすれば、「根源感情」というものはそれほど馬鹿にしたものではない、と思う。あらゆる時代やあらゆる文化には、何かその地域や時代を特徴づける「根源感情」のようなものがある、と思えてくる。
私は、それを「根源的価値」と呼んでおきたいが、たとえば、日本には、日本の「根源的価値」のようなものがあり、それが、日本人のほとんど無意識の発想の形を規定し、日本人の思考の歴史の底を流れていると考えてみたいのである。
「根源的価値」として何を取り出すかは、その人独自の考えであろう。私には、私にとって「根源的価値」と思われるものがある。他の人にとってはまた別のものがあろう。その意味で、これは主観的であり、どこまでいっても、それぞれが「私にとっての日本論」であるほかない。だが、それを突きあわせて議論しあい、雑談でもすれば、結構、楽しかろうとも思うのだ。
外来知識の「累積赤字」
私はもともと経済学を中心とした社会科学や社会思想に関心をもっていた。しかし、これは大学院生の時代からの信念なのだが、厳密な意味での社会科学などというものは存在しないのであり、その背後には、それが形成された、時代や地域の刻印がしっかりと押されている。
社会に関しては、地球上のどこへもっていっても通用する科学というようなものはありえず、社会の理解は、特定の文化や歴史などを前提としなければ生きたものにはならない。
戦後日本に導入された社会科学は基本的に米国産であるが、そこには、アメリカ文化やアメリカの価値観をしっかりと透かし見ることができるだろう。ヨーロッパのそれにはヨーロッパの文化の刻印がある。思想も同じだ。
しかし、それでは、日本の社会科学や社会思想にはどんな刻印があるのか。何もないではないか。まったくの真空に浮かんだ知識の集積に過ぎないのではないか。こういう苦い気分が私の中にはずっと存在し続けてきた。
それにもかかわらず、戦後日本の社会科学も哲学も思想も、その中心部分はほぼ米国からの直輸入であり、それを後生大事に受け入れてきた。貿易でいえば膨大な累積赤字がたまっているだろう。そこに、戦後日本の知的な活動の貧困があり、それがまた、日本の政治や行政やジャーナリズムや、特に近年の論壇の混乱と無関係ではないだろうと思う。
山本七平氏の「見えざる原則」
評論家の山本七平氏が、むかし、こんなことを書いていた。ある著名な経済学者を囲む会に彼は出席した。経済学者は米国流の経済学を使ってあれこれ論じるのだが、それは、山本氏にとっては、まったく日本には存在しない架空の対象を分析しているようにしか思えないのである。
日本の現実の経済には、経済学という知的体系では決して分析できない「見えざる原則」がある、というのだ。そこを知らなければ、日本の経済などわからない。
日本の政治家も財界人もジャーナリストも、著名な経済学者の分析をありがたく拝聴し、「結構な講義でした」などと会釈して解散するのであろうが、現実には誰もこの分析に従って動いているわけではない。実際に日本社会を動かしているものは「見えざる原則」である。にもかかわらず、話だけはありがたく拝聴するのである。
無意識の文化と価値観
もちろん、これは経済だけのことではない。日本社会全般にいえることなのである。こうして、山本流「日本論」は、あらゆる分野で働くこの「見えざる原則」の分析に向けられたといってよいだろう。
日本社会には、海外、とりわけ戦後の米国からの外来種知識をありがたく導入し、時には大上段に振りかざし、しかし実際には、誰もそれに従ってはいない、という奇妙な特質がみられる。その底にあるのは、あくまで「見えざる日本文化」であり、それを私は「根源的価値」と呼びたい。
この「根源的価値」をわれわれは決して日常的に意識しているわけではない。それについての思想的論議があるわけでもない。米国が唱える「個人主義」「自由主義」「民主主義」「人権主義」「法の支配」などはきわめて明示的に述べられた価値である。
日本もそれを受け入れた。しかし、それが日本に根づいたわけでもないし、それが、われわれの日々の行動を規制しているとも思えない。むしろ、何か無意識の文化や価値観によって、われわれの日常は支えられているのであろう。
外来の知識やグローバルな理論が社会の表面を覆っていても、その深層では独自の「根源的価値」が日本人の無意識の発想を規定し続けている。真にこの国を動かす「見えざる原則」を見抜かなければ、私たちは自分たちを永遠に理解できないだろう。
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※本記事は、佐伯啓思著『日本人の精神I 権威と空気の構造』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。










