日本人が「空気」で動くのは、非合理的だからではない――西欧とは異なる「共通感覚」の謎を解く
日本では、SNSでも会議でも日常の会話でも、「論理」より「場の雰囲気」が強く働くことがある。日本社会の「空気」とは、単なる同調圧力ではなく、もっと深い宗教感覚や世界観に根ざすものかもしれない。
京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は、新刊『日本人の精神I 権威と空気の構造』(新潮選書)で、それは日本人独自の「共通感覚」に起因するのではないかと説く。以下、同書から一部を再編集して紹介する。
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一神教がもたらす相対主義と合理性
西欧と日本で何が違うのだろうか。ただ西欧人は合理的思考になじみやすく、日本人は非合理性へと傾く、というだけのことなのであろうか。あるいは、日本はまだ十分に「近代化」していないからなのか。
『「空気」の研究』などの著書で知られる山本七平は、西洋では、言霊や物霊が比較的排除されやすいという。その根本的な理由を、彼は西欧における世俗を超えた超越的な絶対神に求めた。
山本説も参照しながらいえば、日欧の違いは、西欧の合理主義と日本の非合理性にあるのではない。むろん、近代化の程度の差ではない。「神」の位相の違いにある。非合理的といえば両方とも非合理的なのだが、西欧社会は、この非合理性のなかから、一種の合理性を生み出したのである。
よく知られているように、ユダヤ教、キリスト教(とりわけプロテスタント)、そしてイスラム教には「偶像崇拝禁止」があるが、それはどうしてなのか。
理由は簡単で、神のみが絶対者であるとすれば、被造物に覆われたこの世界はすべて相対的であって、その中の特定のものへの崇拝は神に対する冒涜となるからだ。
偶像崇拝禁止と独裁者の否定
一神教世界では、絶対的存在は神のみで、被造物である人間が真に崇拝するのは神のみである。人間は決して完璧な存在ではないために、常に誤謬と隣り合わせである。「悪」は人と同居している。したがって、人間が人間を崇拝するのは、誤り以外の何ものでもない。道徳的に誤りというよりも、論理的に、あるいは人間存在的に誤りなのだ。人間の中に巣くう「悪」のゆえに、人間を崇拝することなどできない。
それゆえ、何らかの被造物の絶対化、つまり偶像崇拝は、相対世界にある人間による絶対性の侵犯となる。だから、ヒトラーであれスターリンであれ、人という被造物に対する崇拝は神に対する冒涜となる。独裁者とは、神への敵対者であり、悪魔の化身なのだ。
それゆえ、神をもたない無神論は、それ自体が悪魔的なものとして恐れられることとなる。米ソが対決した冷戦は、キリスト教の欧米からすれば、共産主義という悪魔に支配された無神論との戦いでもあった。また、キリスト教に見られるイエスや聖人などの図像や彫像という物質崇拝も、旧約聖書の根源に立ち戻れば許されることではない。
物質は物質なのであって、物質の背後に何か霊的なものの臨在を感じ、これを礼拝するなどということは被造物に支配されることを意味し、それもまた神に対する冒涜を意味するであろう。フェティシズム(物神崇拝)が強くいさめられるゆえんである。
西洋の弁証法と「ディセルタシオン」
そこで、あらゆる物事が相対的であり、絶対的な正義も完全な真理も存在しないのがこの人間世界の現実であるとしよう。すると、ある概念、思想、命題、それにある人物には、必ずそれに対立するものが存在することになる。ある特定の観念であれ、思想であれ、ある人物であれ、絶対的に正しいものはありえないからだ。ここから、西洋的な論理や独特の思想がでてくる。
西洋的な論理では、ある思想にせよ、命題にせよ、自分の主観的な思いによって、絶対的に正しいと主張するわけにはいかない。ある命題や主張が正しいかどうかは常に相対的であって、それなりに検証されなければならない。そこで、自らの主張の正しさを論証し、他者を説得しなければならない。それでも他者は反論する権利をもつ。
こうして、西欧の言論は基本的に弁証法的性格をもつ。こういう論理の作用を、われわれは通常、合理主義といい、理性の働きという。そこに弁証法哲学がうまれ、またある仮説に対して常に反論可能であるとする実証主義がうまれる。
こうした論理作用の弁証法は、西洋では、高校レベルの教育でも徹底されているようで、渡邉雅子の『論理的思考とは何か』(岩波新書)を読むと、日本人の論理的思考とはいかに異なっているかが印象的に描かれていて面白い。
彼女は、フランスのバカロレア試験などで使われる「ディセルタシオン」の作文様式を取り上げているのだが、そこでは、まず書き手が自らの主題を提示し、それぞれに対する好意的な見方、続いて反対の見方を論じ、その上でそれを総合する。
まさしく弁証法的な論じ方が、高校生の頃から要求され、その様式で論じなければ論述として失格なのである。相対主義の中から「正、反、合」の弁証法的論理が組み立てられるのである。
日本の「感想文」文化と「共感」
ついでながら、日本の「作文」は根本的に様式が異なっている。渡邉によると、日本の作文の大半を占める「感想文」は、まず、生活の中での、自らの体験や見聞を、その背景とともに書き、それについて感じたり思ったりしたことを書く。
感想文では、主張の明確さや正しさの論証ではなく、日常の経験についての認知、思考、感性、態度の全方位的な総合が求められるのだ。このような感想文で求められるのは、個人の体験や感情、生き方を社会のなかの他人と共有して「共通感覚」として表現することだ、と渡邉は述べている。間主観的な「共感」を得ることが大事なのである。
こうした「感想文」の書き方は、われわれ日本人にとっては、小学生の時分からの作文の基本形であって、多くの日本人にはなじみ深いであろう。フランスの「弁証法型」とは大きく異なっている。
西洋が絶対神から合理性と弁証法的思考を生んだのに対し、日本は「感想文」文化に象徴される共感と「共通感覚」を重んじる。論理を超越する「空気の支配」は、単なる非合理性ではなく、この深い世界感覚に根ざしている。
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※本記事は、佐伯啓思著『日本人の精神I 権威と空気の構造』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。










