数多の週刊誌記者が頭を抱えた「発売日の悪夢」…記事が印刷された後に“事態が急変”したら
近年は、隔週刊もあるようだが、「週刊誌」とは、本来、その名のように、週に1回「刊行」される雑誌である。
週刊新潮の場合、毎週火曜日夕方が「校了」タイムである。「校了」とは、すべての原稿が活字に組まれ、校閲・修正も終わり、いよいよ印刷にまわされる状態のことをいう。校了後は、火曜日夜から印刷製本がはじまり、水曜日早朝に雑誌ができあがりはじめる。そしてトラックによる全国各地への配本となる。発売は木曜日である。新聞広告も、木曜日朝刊に載る。
つまり、火曜日夕方に“完成”した記事は、1日半後の木曜日朝に、一般読者の目に触れるわけである。
ところが、その1日半の間に、記事で書かれた事態が“変化”してしまう、あるいは記事の見通しちがいが判明した――なんてことがある。そうなると、古い内容の雑誌が、木曜日から1週間、ずっと店頭に置かれることになる。
新聞だったら、1日2回、朝夕刊があるから、すぐに最新情報に切り替えることができるが、週刊誌は、そうはいかない。記者にとって、なんとも悔しい1週間をおくることになる。まさに発売日は、「魔の木曜日」だったのである。
今回は、そんな「魔の木曜日」を経験した記者たちの悔恨の回想である。(全2回の第1回)
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天王山の役員会が、「水曜日」なので……
老舗百貨店の三越で、“怪物”とまで呼ばれたワンマン社長、岡田茂氏(1914~1995)については、すでに1970年代後半から、怪文書が出回るなどして批判の声があった。それが本格的に“爆発”しはじめたのは、1980年代に入ってからだった。
押しつけ商法、切り捨て人事、脱税、商法違反、愛人の出入り業者と組んで特別背任……そのうえ、日本橋本店で開催された「古代ペルシャ秘宝展」の展示品の大半がニセモノだったことが判明。まさに三越は、「スキャンダルの百貨店」と化していた。
おなじ三井グループの大御所たちからは、“退陣勧告”まで出た。しかしご本人は、どこ吹く風。批判の声にも「そんなこと関係ねえ」「てめえ、なめんなよ」と、ヤクザまがいの対応をする有様だった。
このような一流百貨店のスキャンダルに、週刊新潮が黙っているはずもなかったが、どう取材しても、岡田体制は盤石で、崩れそうもないとの情報しか入ってこない。取り巻きの幹部連中が、全員、岡田社長に篭絡され、脅されているらしく、見事な金城鉄壁を築いていた。
その記事が《絨毯爆撃なんかヘイチャラ 岡田「三越社長」の「シェルター」》(1982年8月26日号)である。さらに《「贋作」ペルシャ秘宝展が致命傷か 「高級品の三越」の後始末》(1982年9月9日号)との追跡記事も出たが、それでも岡田社長は平然としていた。
そして、いよいよ天王山となる役員会が、1982年9月22日(水)に開催されることになった。ここで批判や退陣の声を封じ、乗り切ってしまえば、岡田社長は、その後もワンマン体制を維持できることは確実である。果たして役員会は、どうなるのか……全マスコミが、夜討ち朝駆けで取材にあたっていた。
もちろん、週刊新潮取材班も、全力投球で取材に駆け回っていた。だが……問題は、肝心の役員会が「水曜日」に開催されることだった。先述のとおり、週刊新潮の校了は、火曜日夕方で、発売は木曜日である。水曜日の役員会の結果がわからないうちにつくった記事が、役員会翌日の木曜日に、世間の目にふれるのだ。いわゆる“予測記事”を書くことになる。
「ところが、どんなに取材しても、“岡田体制に変化なし”との感触しか得られないんです」
と、当時の取材班のひとり、Aさん(現在68歳)が回想する。
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