豊臣秀頼は、秀吉の子だったのか? 囁かれた淀殿の本当のお相手の名前

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 下賤の身から成り上がった天下人・豊臣秀吉。そんな彼の後継者で、淀殿が生んだ豊臣秀頼は、本当に秀吉の子だったのか? 当時の人々はどうとらえていたのか、大阪城天守閣館長の北川央氏が詳細に検証する。(本稿は新潮新書『大坂城―秀吉から現代まで 50の秘話―』より再構成されたものです)。

秀吉の実子「秀勝」誕生が起源のまつり

 平成28(2016)年、滋賀県長浜市の「長浜曳山まつり」が、「山・鉾・屋台行事」の一つとして、ユネスコの無形文化遺産に登録された。

 この曳山まつりは、豊臣秀吉が長浜城主だった時期に、男子の誕生を喜んで町衆に砂金を振る舞い、それを元手に12基の曳山を建造したのが起源であると伝承される。

 秀吉実子の名は「秀勝」であったという。

 長浜市大宮町の日蓮宗寺院妙法寺境内に「豊臣秀勝廟」があり、内部の墓石には「朝覚霊位 天正四年十月十四日」と刻まれている。残念ながら昭和27(1952)年の火災で焼失してしまったが、同寺には「本光院朝覚居士」「天正四丙午暦十月十四日」の墨書がある童子の画像も伝来した。

 したがって、秀吉が長浜城主だった天正4(1576)年に武家の少年が亡くなり、「朝覚」の法名を贈られたことは間違いない。

 同市平方町の徳勝寺は浅井亮政(すけまさ)・久政・長政3代の墓所がある浅井家の菩提寺として知られるが、同寺には「國泰寺殿雲山峻龍大居士 台閤秀吉公」と「朝覚大禅定門 次郎秀勝君」を併記する位牌が伝存し、「朝覚」の没年月日は「天正四子年十月十四日」と記される。

 位牌は江戸時代後期に作られたものと考えられるので、少なくともその頃には「朝覚」が秀吉の実子「秀勝」と考えられていたらしい。

きっかけは淀殿が生んだ鶴松?

 しかし、長浜曳山まつりの起源を記した寛文6(1666)年の奥書を持つ「江州湖東八幡宮勧請并びに祭礼の由来」には、天正19年に秀吉が町屋敷年貢米300石免除の朱印状を下付した記事に続いて、

「其比(ころ)町々より思い思いの歩行渡りアリ。其後若様御誕生ニ付、町々へ砂金頂戴ス。是ヲ基トシテ曳山造営の志願ヲ発ス」

 と記され、付箋には「棄丸」と書かれている。

 曳山まつりの成立は秀吉の長浜城主時代ではなく、淀殿が最初の男子鶴松を生んだことがきっかけと考えられていたのである。

 また、豊臣秀吉研究の第一人者であった桑田忠親氏は「竹生島奉加帳(ちくぶしまほうがちょう)」に見える「石松丸」こそが、長浜城主時代の秀吉実子「秀勝」の幼名だとし、同じ「奉加帳」に名前がある「南殿」が「石松丸」を生んだ秀吉側室だとするが、これも憶測の域を出るものではない。

 要するに長浜城主時代の秀吉に実子が誕生したとの確証は得られないのである。

 だとすれば、数多くの妻妾の中で、秀吉の子を生んだのは鶴松・秀頼の生母、淀殿ただ一人ということになる。

「もとより彼には子種がなく」

 しかし、淀殿にはいろいろと疑惑がつきまとった。

 フロイス「日本史」は、

「人々の噂によると、関白には、信長の妹の娘、すなわち姪にあたる側室の一人との間に男児が生まれたということである。日本の多くの者がこの出来事を笑うべきこととし、関白にせよ、その兄弟、はたまた政庁にいるその二人の甥にせよ、かつて男女の子宝に恵まれたことがなかったので、こんど誕生した子供が関白の子であると信じるものはいなかった」

 と記し、別の箇所でも、

「彼には唯一の息子鶴松がいるだけであったが、多くの者は、もとより彼には子種がなく、子供をつくる体質を欠いているから、その息子は彼の子供ではない、と密かに信じていた」

 と述べている。

「御袋様と密通」とされた大野修理

 具体的に淀殿の相手を記すのは、毛利輝元の重臣内藤隆春で、慶長4(1599)年10月朔日付の手紙に、

「おひろい様(秀頼)の御局をハ大蔵卿と申す。その子に大野修理(しゅり)と申す御前よき人候。おひろい様の御袋様と密通の事共候か」

と記している。

 伏見に抑留されていた朝鮮王朝の官人姜(カン)ハンも、

「秀頼の母は、すでに大野修理亮治長と通じて妊娠していた」(「看羊録」)

 と記している。

 現在では、大河ドラマをはじめ、淀殿の相手は石田三成であるかのように描くことが多いが、当時は専ら大野治長と噂された。

占い上手な「法師」が相手とされた経緯

 真田増誉(?~1707)は「明良洪範(めいりょうこうはん)」に、

「豊臣秀頼ハ秀吉公ノ実子ニアラズ。窃(ひそか)ニイヘル者アリシトゾ。其頃占卜(せんぼく)ニ妙ヲ得タル法師有テ、カク云ヒ初シト也。淀殿、大野修理ト密通シ、捨君(鶴松)ト秀頼君ヲ生セ給フト也」

 と書いたが、これをどう読み誤ったのか、「豊臣秀頼ハ秀吉公ノ実子ニアラズ」と言い始めた占いの上手な「法師」が淀殿の相手とされてしまう。

 天野信景(さだかげ)(1663~1733)が著した随筆集「塩尻」には、

「豊臣秀頼は、秀吉実子にあらず。大野修理が子かと疑ひける。され共、其実は、当時卜筮(ぼくぜい)の為に寵せられし法師あり。淀殿これに密通し、棄君と秀頼とを生せし」

 と記される。

 神沢杜口(かんざわとこう)(1710~95)の随筆集「翁草(おきなぐさ)」もこれを踏襲し、

「秀頼公の母堂淀殿の事、世説には大野修理に密会して、秀頼公を産給ふと云へ共、或古書を見れば、修理が子と云は非説也。(中略)其事実は、其頃卜筮に名を得て寵せられし法師有り。淀殿是に密通して、棄君秀頼を生給ふと云り」

 と記すのである。

 噂とはえてしてこういうものである。(了)

デイリー新潮編集部