「徳川家康は日本列島を東西に二分割するつもりだった」――近世史研究の第一人者が辿り着いた「歴史の真相」

徳川家康像(模本)部分、(出典:「ColBase」(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-9702?locale=ja)をもとに作成)()
東京を中心とする関東と、京都・大阪・神戸がある関西。現代日本においてもしばしば語られる二大地域区分ですが、江戸時代にまで遡ってその違いについて考えると、新たな視点が浮かび上がります。
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徳川幕府の統治体制において、西国にはなぜ譜代大名が置かれなかったのか。関ヶ原合戦後の領地配置が示すのは、単なる恩賞や遠隔地支配の方便ではなく、日本列島を東と西に分けた二重国制の構想だったのかもしれません。
そもそも、江戸時代、江戸・大坂・京都の三つの大都市を指して「三都」という呼び方もあり、江戸と上方では、金本位制銀本位制と通貨の仕組みも異なっていました。鎌倉時代や室町時代もそうだったように、日本列島を二つに分けて統治するのは珍しいことではなかったのです。
国際日本文化研究センター名誉教授で近世史の第一人者である笠谷和比古氏は、新刊の『論争 大坂の陣』(新潮選書)で、その大胆な仮説を手掛かりに、幕藩体制の根底に潜む力学に迫ります。以下、同書から一部を再編集して紹介します。
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僻遠の地ではない九州
京都から西には関ヶ原合戦で家康に味方して東軍として戦った多くの豊臣系武将たちが、恩賞として国郡制の一国規模で領地を宛行われたことで国持大名として存在することとなった。
これら西国方面における豊臣系国持大名の多さについて、従来はかれらに多大の領土を与えて恩を売りつつ、同時に僻遠の地に追いやった家康の深謀遠慮によるものといった理解がなされてきたが、そもそも西日本諸国や九州諸国をもって僻遠の地というのは当たらない。
当時、これらの諸国は外国貿易とつながっていることを想起しなければならない。ポルトガルであれ、オランダ・イギリスであれ、それらは九州に到達して平戸・長崎その他の地に寄港して交易し、そののち瀬戸内海をとおって泉州堺までやって来て、鉄砲・火薬などの軍需物資や羅紗・更紗といった外国物品をもたらすのであった。
そのルートの周辺諸国は当時の最先端の文明に浴する地域であり、僻遠の地という評価が失当であることは言を俟たないであろう。
関ヶ原の東軍主力は豊臣系武将
これらの多大な領地分与は、関ヶ原合戦において、家康に味方して東軍として戦った豊臣系武将たちへの、功績に応じた行賞という他はない。
関ヶ原合戦において西軍と対峙した東軍の前線に配備された約4万の部隊の8割方は、いずれも豊臣系武将のそれであり、徳川系の部隊は井伊直政と松平忠吉の二武将が率いた約6000余のそれでしかなかった。これが戦後世界について、西国方面における豊臣系国持大名の広域分布の背景であった。
中小クラスの大名にも譜代・親藩がいない
ところがこの西国方面における領土分布には、より深い意味のあることが明らかになってきた。先述したように国持大名が一国一円を領有するという領地構造をもつことから、2万石、5万石クラスの中小の大名はそれだけが集められた中小クラス大名の混在国が形成されることになる。それは丹波国、但馬国、因幡国、備中国、肥前国、豊後国、日向国などである。
ここには多くの中小規模の大名が存在しているのであるが、これら多数の大名の中に徳川系の大名、すなわち譜代大名および家門大名(親藩)が、一つも存在していない。
この点は従来の研究では見落とされてきたのであるが、これは極めて重大な問題と言わねばならない。このような重大な事実を看過しては、関ヶ原合戦後の国制を正しく解明できないだけでなく、そののち200年余にわたる幕藩体制をめぐる研究が進められないことは言うまでもないことであろう。
譜代大名配置の必要性
家康の立場からしたとき、これら諸国、特に江戸から遠方に位置する備中国や豊後・日向国などに譜代大名を配置しておくことは統治の観点から必須の要請であろう。
平時の行政行為において、西国・九州の諸大名に対し命令の伝達と、迅速なその施行を求める観点からも、そしてより一層重要な軍事の局面において、それら周辺地域に反乱の兆しが認められた時には、いち早くその情報を家康の下にもたらすためにも、また小なりといえども城を構えている以上は、反乱軍を足止めさせて、その展開を遅らせるという観点からも、それら諸地方に譜代大名を配置しておくことの必要性については言を俟たないであろう。
しかし現実を見るならば、徳川系大名は皆無なのであった。2万石、5万石クラスであるならば、家康が西国・九州方面の各地に譜代大名を配置することには、何の障害もなかった。しかし家康はそれを行わなかったのである。なぜ、一つの譜代大名も置かなかったのであろうか。家康にとって西国統治を行うには不可欠であるこの措置を、敢えて回避している。これをどのように理解することができるであろうか。
非力な代官所支配や国奉行制
ある意見としては、京都以西に徳川の譜代大名は見えないけれども、徳川幕府の直轄領はかなりの数に上るから、徳川の勢力が不在とは言えないとするものもある。
確かに一面の事実である。しかしそれは、あくまでも代官所支配という形であり、行政上の命令伝達という点では周辺の地域に対する影響力を及ぼすことはできるけれども、反乱や武力衝突といった軍事問題に対しては非力である。事前の抑止効果に至っては、それを期待することはゼロに近いであろう。
また別のタイプの議論として、これら中小規模の大名の混在国には、国奉行と呼ばれる制度が設置されていたことも知られている。しかしながら、それは専ら錯綜する領地領有関係を整序し、年貢収納を円滑化ならしめるとともに、一国規模での治水や城普請の遂行を目的として設けられたものである。それ故に、右に述べた代官と同様に行政上の執行機能という点では有効であるけれど、軍事面では無力である。そしてその国奉行ですら、備中国までであって、その先にその存在を認めることは出来ない。
京都を境にした列島二分統治
西国方面における徳川譜代大名の不在ということの意味は、どのように捉えられるであろうか。そこから導かれる最も蓋然性の高いと思われる答えは、次のようなものであろう。すなわち家康は、全国一元支配という考えを取らなかったということ、京都を境にして日本列島を東国と西国に二分し、自らは東国を統治するけれども、西国に対する統治は別立てとする、西国直接統治回避の原則を取ったということ、これに他ならないであろう。
日本列島を二分して、東国と西国を分割統治するという二重国制の構想である。それ以外に、この関ヶ原合戦後における全国的領地配置の意味することを説明できる理論図式は果たしてあるだろうか。
「二重公儀体制」をめぐる議論展開は、すべてこの領地構造の問題を基礎に置き、そこから発出している。この領地構造の問題は、関ヶ原合戦以降、大坂の陣までの流れを規定する基盤低音として常に響き渡ることになるであろう。
※本記事は、笠谷和比古著『論争 大坂の陣』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。
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