「およげ!たいやきくん」を歌った「子門真人」はプロ歌手ではなく“サラリーマン”だった…歴史的ヒット曲のギャラが「5万円」だった裏事情
12月25日と言えばクリスマスである。一方で、新聞やテレビなど、各メディアにある「今日は何の日?」コーナーでは、雑学として、以下のように紹介されることが多い。
〈「およげ!たいやきくん」の発売日(1975年12月25日発売)〉
「およげ!たいやきくん」は、シングルレコード(ドーナツ盤)として450万枚以上を出荷し、未だに歴代シングル売上ランキングにおいて1位に輝く、昭和世代にとっては圧倒的に有名な曲である(※1)。今年は、その発売から50周年の節目となった。同曲が「なぜ売れたのか?」も含め、当時の知られざる逸話を紹介したい(文中敬称略 全2回の第2回)。
【写真を見る】 抜群の歌唱力! 熱唱する子門真人や大ブームとなった当時の写真など
子門真人が歌った理由
ところで、この「およげ!たいやきくん」、最初は違う歌手が歌っていたのをご存じだろうか?
「ひらけ!ポンキッキ」で10月に流れ始めた際、歌っていたのは、フォークシンガー、生田敬太郎だった。こちらのバージョンも物哀しくて味があり、人気に寄与したのは間違いないが、レコード化が決まる数日前、生田はテイチク・レコードと専属契約をしてしまったのである。「ひらけ!ポンキッキ」を放映するフジテレビとしては、系列会社のポニー・キャニオンから発売したい……。
そこに現れたのが子門真人だった。フジ音楽出版の林製作部長(当時)は言った。
「そういえば、子供の歌の吹き込みをポニー・キャニオンから頼まれてるんだが、歌ってみないかね?」
子門は笑顔でこう答えたという。
「よぅござんすよ」
それではと、この直後、練習無しで1時間で吹き込みは済んだという。そもそも子門は、別の用事で、林制作部長に会いに来ていたのだ。それは、自身が勤める円谷音楽出版に関連した新人歌手の売り込みだった。歌った子門自身が、そもそもサラリーマンだったのだ。
子門真人は1944年、東京生まれ。本名は藤川正治といい、玉川大学文学部英文学科卒業の才人だった。元来は大のビートルズ好きの歌手志望で、1966年、藤浩一の芸名で、「涙のギター」という曲でデビュー。2枚目に出した「黄色いレモン」は、今に名だたる作曲家、筒美京平のシングルでのデビュー作品である(※2)。作詞、作曲もこなし、第4回の「ポプコン」(ヤマハポピュラーソングコンテスト)では歌唱賞をとるほどの実力派だったのだ。
しかし、シンガーとしては泣かず飛ばす。シングル5枚を出した後、デビューから1年半でシンガー・藤浩一としては引退し、前出のフジ音楽出版に就職。その後、夜学で簿記3級の資格を獲り、これまた先に触れた円谷音楽出版にサラリーマンとして転職したのである。とはいえ、役職はチーフ・プロデューサーで、経理以外にも実質、1人でさまざまな業務をこなしていたのが実際のところだった。
そして、“歌入れ”もその一つだった。元プロ歌手というキャリアを買われ、そのソウルフルな歌声で、子供向けのアニメや特撮番組の歌唱を担当。「レッツゴー!! ライダーキック」「ジャンボーグA」「ファイヤーマン」などを歌い上げ、音源化もされたが、子門のギャラは吹き込み料として、「だいたい4万円」(本人談)だった。今の貨幣価値では、10万円から15万円ほどで、子門自身、良いアルバイトと捉え、気安く引き受けていたという。そうして、前述のやりとりを経て、『およげ!たいやきくん』(子門真人版)の発売に至ったわけである。
いざ発売されると、その驚異的な売り上げもあり、子門も一躍、人気者に、カーリーヘアに丸眼鏡のいでたちも個性的で、テレビ番組にも引っ張りだこになった。先述のアンサーソングを歌った山本リンダとは、2ショットでアクアラングを付けて水族館の水槽内でデートするグラビアも(週刊平凡。1976年2月19日号)。
マスコミが彼を追うことで、ギャラについての意外な事実も明らかになった。子門のギャラは、吹き込み料として先に言及した4万円より、若干多い、5万円のみだったのである。子門自身は、普段より1万円多くてラッキーだと思ったらしいが、印税契約にしていれば巨額の富が流れ込んで来ただけに、世間からは同情の声が続出し、ポニー・キャニオンが特別に100万円とスペイン製のギターを贈る顛末に落ち着いている。
「およげ!たいやきくん」が並外れて売れたことで、子門は“一発屋”と思われがちだが、全くそんなことはなく、以降も、「ホネホネロック」「アブラハムの子」「はたらくくるま2」など、スマッシュヒットを連発。だが、歌手に重きを置くことは決してなく、以降も音楽事務所を設立したり、もしくは広告代理店に勤めたりと、専業にすることはなかった。本人の弁がある。
〈「売れない苦しさを知ってますから、歌手に転業するつもりなんてありません」〉(「BIG TOMORROW」。1989年4月号)。
素顔はおとなしく、温和な人物だった。趣味はアマチュア無線で、「本当に“たいやきくん”? なら、ちょっと歌ってみせて」と請われ、無線機越しに披露することも多かったという。敬虔なクリスチャンで、芸名の子門はイエスの弟子のシモン・ペテロから。丸眼鏡は大好きな絵本、「ジョゼフのにわ」の主人公を真似たもの。少年ジョゼフが綺麗に咲く花を独占欲から切ってしまうと花は枯れてしまい、その経験から自然に見守ることの大切さや周囲の存在への愛情を学ぶという話だった。もとは辞めた会社であるフジ音楽出版と付き合いが続き、歌入れまで行ったのも、そんな彼の人柄がなせるわざではなかったか。
「たいやきくん」のディレクターである小島豊美(音楽プロデューサー)は、当時、テレビの仕事に気が向かないという、子門のこんな吐露を聞いたことがあるという。
「なんかねぇ、振り回されているようで」
小島は、子門の想いをこう代弁している。
〈「物静かな人で、子門さんは純粋に歌を唄いたかっただけなのでしょう〉(「文藝春秋」2025年1月号)。
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