“権力の絶頂”は総裁に選ばれる直前… 古市憲寿が指摘する「高市早苗新総理」の勝負時
どうしても欲しかったものなのに、いざ手に入れたらすぐに飽きてしまう。誰にでも心当たりがあるのではないだろうか。快楽順応という言葉もあるが、人は幸せにすぐ慣れてしまう。欲しかったかばんを手にしても、すぐにそのかばんの存在が当たり前になり、満足感を得られなくなる。ずっと憧れていた結婚をしても、幸福は長くは続かない。「欲しい」と「好き」は違うということなのだろう。
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似たようなことは権力にもいえる。先月自民党の総裁選挙があり、紆余曲折を経て新しい総理大臣が決まった。この候補者も、総裁に選ばれる直前が権力の絶頂だという。
ここでいう候補者の「権力」とは、実際の行政権力ではなく、「総理大臣になるかもしれない」という期待である。党内の議員たちは「この候補に乗れば、自分も大臣になれるかもしれない」という期待によって、候補者の元に集まる。
だがいざ総裁に選ばれ、総理にまでなってしまうと、現実と対峙することになる。公約を実現させるには、予算の制約、官僚の抵抗、野党の反対、国際情勢の急変など、無数の壁がある。そして「結局この人も口だけなんだ」と落胆が生まれ、支持率も落ちていく。基本的に内閣支持率は、発足直後が最も高く、後は落ちていく一方だ。
そもそも日本の総理大臣の権力は、非常に制限されている。RADWIMPSに「マニフェスト」という歌がある。歌詞は「僕が総理大臣になったら」から始まるのだが、そこで歌われていることは、本当の総理大臣には不可能なことばかりだ。「君の誕生日を祝日にしよう」も「君の家まで電車を走らせよう」も無理。「日本国民一人ひとりから一円ずつだけもらって君と一億円の結婚式しよう」はもっと無理。
歌詞にある公約は、すべて「新しい法律を作る」か「巨額の予算を動かす」必要がある。その決定権は総理大臣ではなくて国会が持つ。総理大臣は国会を構成する議員の一人でもあるが、個人の意思で法律を作ることはできない。あくまでも総理は、法律を執行する内閣のトップ。いわゆる三権分立というやつですね。
衆議院も参議院も過半数の議席を持つ政党の総裁であれば党の協力の下、できることは一気に増える。ただし、あの安倍政権でさえ、自由に何でもできたわけではない。彼を独裁者だと批判していた人がいるが、昭恵さんの誕生日である6月10日は祝日になっていないし、家の前までの線路もない。それどころか冷静に安倍政権を振り返ると、欧州でいえば労働党のようなリベラルな政策が多かったことに気付かされる。
この国では総理でさえ、できることが限られる。総理だけがアクセスできる情報も、それほどない。しかも少数与党ならなおさらかじ取りは難しい。快楽順応をしているのは、支援者だけではなく新総理その人かもしれない。本当の勝負は、熱狂からさめ、現実と向き合うところから始まる。サナの旅はどこまで続くか。




