「人が死ぬということに対してさえ、無感覚、無関心だつた」 遠藤周作、阿川弘之、司馬遼太郎、水木しげる…1920~1923年生まれが「決死の世代」と呼ばれた理由

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「戦争要員のごとくに運命づけられて生まれてきた」

 戦後の日本文壇で輝かしい功績を残した作家たちの中で、ある特定の年代に生まれた人々は、小説やエッセイで繰り返し「戦争」について綴った。『海と毒薬』の遠藤周作(1923年3月生まれ)、『雲の墓標』の阿川弘之(1920年12月生まれ)、『坂の上の雲』の司馬遼太郎(1923年8月生まれ)、『戦艦大和ノ最期』の吉田満(1923年1月生まれ)、『プレオー8の夜明け』の古山高麗雄(1920年8月生まれ)、『悪い仲間』の安岡章太郎(1920年5月生まれ)などが代表的だろうか。それは小説家に限らず、漫画家の水木しげる(1922年3月生まれ)もこの世代に当たる。

 彼らは「決死の世代」と呼ばれた。読売新聞の前田啓介記者は、最近上梓した『戦中派―死の淵に立たされた青春とその後―』(講談社現代新書)の中で、彼らが戦争について語り続けた理由について詳しく解説している。(以下は同書から一部抜粋・再編集したものです)

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 作家の保阪正康(1939年生まれ)は太平洋戦争の軍人、軍属、民間人を合わせた戦死者約310万人は概数であり、実際には戦後の戦病死を含めて500万人は超えるのではないかとした上で、「では、この中でもっとも多くの人が戦死しているのは、何年生まれなのだろうか」と疑問を投げかける。

 その疑問を解決するために、保阪は昭和時代の終わり頃、ある私立の小学校から大学までの卒業生名簿や他にいくつかの大学の卒業生名簿から、戦死者の数を調べた。その結果として「大正10~12(1921~23)年生まれが多いと分かった。特に大正11(22)年生まれが多いように思った」と述べる。そして「この世代の人たちは、まさに戦争要員のごとくに運命づけられて生まれてきたようでさえある」と嘆く(『毎日新聞』2020年3月21日付朝刊)。

人間魚雷「回天」の乗員に最も多いのは「何年生まれ」か

 社会学者の森岡清美は1991年刊行の著書『決死の世代と遺書』で、1947年の臨時国勢調査の数字を用い、1915年生まれから1925年生まれがどれくらい減ったかで、「戦争によって最も深い痛手を受けた世代」を特定しようと試みた。結果として、特に戦没者が多かったのが1920~1923年生まれだと分かった。それを受け、森岡は「戦没と生き残りに運命が別れる手前のところまでたちもどって、決死の世代と呼びたい」と提唱した。「決死」という言葉について、同書のなかで森岡が説明している。

〈決死とは、一般に、任務遂行のために命を賭することの主体的な構えであるとともに、比較的短い月日の間に必ず死に直面するであろうとの自己の死期についての認知である。とくに、戦時下の若い男子が遠からず直面することを覚悟した死とは、軍事行動による、もしくは関連する死、つまり戦死であった。時代のインパクトのもとに、このような構えと認知をもつ個人が多発した世代が決死の世代であって、太平洋戦争の激戦場に徴兵制度によって動員された1920~23年生コーホート(引用者注:集団)こそ、これに当たると考えられる〉

 森岡は、さらに公刊された戦没学生・生徒らの遺書集を使って、そこに記された生年を抽出する作業を行い、生年による戦没者の数を調査した。森岡が使った遺書集は3冊ある。これらのなかから重複を除いた127人を生年別没年別に集計すると、もっとも戦没者が多い生年は1923年で22人、次が1922年で21人、その次は1921年で15人だった。しかも、もっとも多い1923年生まれは、18人が1945年(8月15日まで)に亡くなっていた。

 森岡は人間もろとも体当たりし、命と引き換えに敵艦を沈める海軍の兵器だった「回天」の戦没者の生年も調べているが、やはり総数67人中、1923年生まれが最多の17人、次いで1922年生まれが10人となり、1924年生まれは6人だった。

 森岡には同世代の戦没者を扱った研究書や論文がいくつかあるが、要所要所で情緒的な表現が目につく。それは森岡自身が1923年生まれの戦中派であり、「決死の世代」だからなのかもしれない。

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