「復讐心に燃えるオランダ人が……」敗戦後にインドネシアに抑留された日本軍兵士が味わった「地獄」
戦後80年、これまで多くの戦争の悲劇が語られてきたが、あまり知られていないのが、敗戦後に南方に抑留された日本軍兵士たちが味わった悲劇である。
とりわけインドネシアのジャワ島では、戦時中に日本軍によって抑留されていたオランダ人が、一転して日本人を抑留する立場となり、復讐心に燃えるオランダ人によって日本人は厳しい強制労働を課せられることになった。
日本軍人らの貴重な日記類を読み解き、南方抑留の歴史的背景と過酷な実態を明らかにした『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』(林英一著、新潮選書)では、ジャワ島で最悪といわれたタンジュン・プリオク港の作業隊にいた陸軍主計中尉・大庭定男さんの日記から、当時の様子を再現している。以下、同書から一部を再編集して紹介する。
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「一年前まで我々の中の誰かがやっていたことの仕返しである」
厳しい強制労働やオランダ人らから受けた屈辱について寡黙であることも、大庭の日記の特徴である。それでも子細に読めば、抑留中に何度も敗者の悲哀を舐めていたことが匂ってくる。
たとえば、オランダ船への石炭の積み込み作業を手伝った際、「我々が汗まみれ、埃まみれになって作業している時、この船に乗船しているオランダの子供は嬉々として戯れていた。兵隊の中には極度に反感の情を表すものがあった」(1946年6月18日)。
また、アムステルダムから寄港した豪華船のポーターをしているときに、「この船の監視に来ていたMP(憲兵)より我々は不愉快なる取扱を受けた。このような取扱いを受けるにつけ我々はこれがかって一年前まで我々の中の誰かがやっていたことの仕返しであると思うにつけ益々残念になるのである」(1946年6月23日)と述べている。
そうした様子をみてか、「インドネシアの苦力も最近においては我々を馬鹿にするようになってきた」(1946年11月5日)。その後もポーターをしていると、「何かしら威張りたい人達であり、気分的にも嫌になり、本当に重い荷物を背負って狭い船中をあちらにぶつかりこちらにぶつかって行く時にはつくずく人生の悲哀を感じた」(1947年1月14日)という。
作業隊で発行されていた雑誌『たんじょん』第四号に掲載された絵河潤之介の漫画「君よ知るや南の国」には、甲板の上で日光浴する水着姿の女性の間をトランクを担いで汗だくで歩く日本人の様子が描かれている。こうしたオランダ人との接触が苦い思い出となった者は少なくなかったようだ。
「ジャップの馬鹿野郎」という罵声
こんなこともあった。大庭が物品を納入しに係官のもとを訪ねたところ、タイピストが「もう午前中に帰りました。ご承知のことと思いますが今日はクリスマスですから」といってニヤッと意味深に笑うのを見て、大庭は「『やられた』と思った。その笑いは決して勝利を誇ろうとか、嘲笑するとか、皮肉とかいう要素は少しもなかった。本当の女の温かい笑いに過ぎない。しかし私は正面より殴られたごとき感がした。彼女は短く言って笑っただけであった。しかし彼女はその笑いの中に『苦しかった戦争は終わりました。そして平和が来ました。楽しい楽しいクリスマスも五年ぶりで味わうことができます。皆抑留所から出てきました。今晩はダンスと酒に一夜を明かすでしょう。それに比してあなたがたは──』ということをその無言の中に言ったのであった」(1946年12月24日)と受け止めている。
陸軍司政官の赤座弥六郎軍属も、タンジュン・プリオクの埠頭の宿舎で、コンクリートの上にアンペラ1枚を敷いて毛布にくるまって寝ていたところ、「勝利の美酒」に酔った連合軍の船員たちの「ジャップの馬鹿野郎」という罵声を聞き、目に涙を浮かべながら「この時ほど、まざまざと敗戦の事実を痛感し、口惜しい思いをしたことはない」と振り返っている。
こうした環境にもかかわらず大庭や抑留者たちが発狂せずに耐えることができたのは、もうすぐ日本に復員できるという希望を持ち続けていたからだ。しかし、その期待は何度も裏切られている。
日本人の無賃労働を正当化
大庭の日記には、「昨夜我々は青天の霹靂のごとき発表を聞いた。…〔引用者中略〕…このショックは我々が終戦時に受けたショックと同じ大きさのものであった。従来種々なることに騙されてきながらも九月までには帰れるんだといって忍んできた将兵の心もちはこの大きなショックのために絶望のどん底に投げこまれ、何物をもってしても救い得ないという状態になってしまった」(1946年7月14日)、「我々が英軍の撤退後オランダ軍の管理下に残されるという最も悲しいかつ忘れ得ないニュースがあった。英軍撤退後の状況を想像すると気が狂いそうだ。英軍撤退後に一人の日本人もジャワに残さないというのが英軍の大方針であった。然しながらこの方針も現実の必要のため変更されたのである。これで大英帝国といえるであろうか?」(1946年9月7日)との恨み節が綴られている。
このイギリス側の方針転換には、1946年5月に東南アジア連合軍最高司令官でヴィクトリア女王の曾孫にあたるルイス・マウントバッテン海軍大将がマラヤ、ビルマで復員待機中の日本人約10万人を強制残留させるよう本国政府へ承認を求めたことが関係している。その背景には、現地に米不足をもたらした責任を日本が負い、植民地復興と再建のために日本人が積極的に労働すべきであるとイギリス側が考えていたことがある。これにオランダも追随した結果、大庭ら1万3000余人も現地に残留することになったのである。
これは「武装解除後に各自の家庭に復帰する」としたポツダム宣言第9項に反していた。また、将校を除く捕虜に労働させること自体は国際法で禁じられていなかったものの、イギリスは武装解除した日本人を国際条約によって労賃が支払われる「捕虜(Prisoners of War,POW)」ではなく、「降伏日本軍人(Japanese Surrendered Personnel,JSP)」として扱うことで、無賃労働を正当化したのであった。
※本記事は、林英一『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』(新潮選書)を再編集したものです。












